鈴木 靖将(すずき やすまさ)さん

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COREZO(コレゾ)「とにかく描くのが好き、万葉の世界、いにしえの日本人のこころや情感を絵にして、世界に伝える日本画家」賞


日本画家

鈴木 靖将(すずき やすまさ)さん


日本画家


琵琶湖疏水とさざなみの道の会



ジャンル

芸術

文化

日本画

市民活動

ボランティア活動 



受賞者のご紹介


 鈴木 靖将(すずき やすまさ)さんは、滋賀県大津市出身、在住の日本画家。

 

 2014年4月、山岡康人さん、啓子さんご夫婦が経営する、大津の「けんこう舎」さんで催された「筍を愛でる会」で、鈴木さんがご自宅の竹林で掘られたという筍の料理を振る舞って頂いた。

 

 鈴木さんは、先妻で、同じく日本画家だった三橋 節子(みつはし せつこ)さんを早くに亡くされ、後に、陶芸家である晴嵐(せいらん)夫人と再婚されて、現在は、ご夫婦で活躍されている。

 

 三橋 節子さんは、京都市立美術大(現京都市立芸術大)で日本画を学び、29歳で大津市在住の鈴木さんと結婚。2人の子供を出産された。画家として将来を嘱望されていたが、34歳の時、右肩鎖骨のがんで利き手の右腕を切断した。

 一時は絶望して誰とも口をきかなくなったが、夫、靖将さんの「絵描きは絵のことだけ考えよう」という言葉に励まされ、左手で鉛筆をとり、文字を書く練習をはじめる。そして、絵筆もとり、「絵は心で描くものだ。左手があれば十分だ」と、繰り返し、自分に言い聞かせ、死と向きあいながら、生きた証を幼子たちに残すかのごとく、地元、近江に伝わる昔話を題材にした作品を中心に描き続けたが、がんの転移のため35歳で死去。その後、哲学者の梅原 猛さんの著書、「湖の伝説湖の伝説-画家三橋節子の愛と死」という伝記が出版されて、多くの人に知られるようになった。

 

 その三橋 節子さん没後40周年記念企画展として、死が近づいていることを知りながら絵を描き続けた妻と、その生と死を共に葛藤し、内側から支え続けた夫、鈴木靖将さんの作品、計約50点を展示する「魂の出会いと別れ展」が開催されていた「大津市長等(ながら)創作展示館・三橋節子美術館」に、鈴木さんを訪ね、お話を伺った。なお、お二人が暮らした大津市で、作品が一緒に展示されるのも、「三橋節子美術館」でご本人以外の作品が展示されるのも、初めてだったそうだ。

 

−− 先日は筍料理、ごちそうさまでした。すごくおいしかったです。

 

「42年前にこの美術館のすぐ隣の山手の家に引っ越してきて、敷地内に竹林があったものですから、筍の季節には毎朝掘って、家族で楽しんでいましたが、その内に、友だちやウチに出入りする人たちに無理矢理、食べてもらうようになって、あれもできるこれもできると、料理のレパートリーが増えていきました。『筍を愛でる会』は、自宅も含めて、年、5〜6回やっています。筍はあまり自己主張せず、何でも受入れる素材で、歯触りがシャリシャリとして、淡白だし、いろいろなものを活かす味で、非常に優れた食材だと思います。4〜5月は、ウチの庭で穫れるし、毎日3食、食べても飽きないぐらい、大好きです。」

 

−− 筍料理専門店にも引けを取らないお料理の味と品数で驚きました。ところで、大津のご出身と伺いましたが?

 

「そうです。47年前、節子が私のところへ嫁いできた頃には、今の家から、150m程先にある家に住んでいましたが、右腕を失くしてからの作品は、今の家で描きました。」

 

−− 腕を失くされてから何点ぐらい描かれたのですか?

 

「うーん、小さいものも含めると100点ぐらいかな。2年間の内、1年は入院していましたから、ようがんばったと思います。彼女はものすごく静かで、忍耐強く、おとなしくて、大きな声ひとつ上げたことの無い人でしたが、大胆なところもあって、ものすごく恥ずかしいんだけど、今回、没後40年を機に、いろんな角度から彼女のことを知ってもらいたいと思って、彼女からのラブレターも公開しました。」

 

「右手で書いていた頃の字と、左手で書き始めた頃の字と、亡くなる少し前の字も展示してあるのでご覧下さい。左手で書くのも上達が早かったですね、晩年は、右手で書いていた頃より字がきれいなくらいでしょ?それだけ、努力していました。ご覧頂いたらわかるように、画風も明らかに変わっています。この『花折峠(はなおれとうげ)』は、川に突き落とされた心の優しい娘が、峠の花たちに助けられるという、滋賀の伝説をモチーフにしていますが、絵の女性は、節子自身の葬送図です。『三井の晩鐘』は、龍神の娘が、人間と恋をして、赤ん坊を産んだ後、湖に帰らざるを得なくなり、乳の代わりに、自分の目をくり抜いて、子に与えるというお話ですが、この話に自分を重ね、節子にとって、湖は死の世界で、子を守りたい、でも、別れて行かねばならないという葛藤を描きました。」 

「節子が晩年、絵に集中できたのは、僕のおふくろが、子供の世話や生活面で支えてくれたおかげでした。節子は死ぬ間際、皆さんに有難うございました、と伝えてね、と言いました。見事な死に際やったから、生きているオレもがんばらなアカン、向こうで会うた時には、笑われんようにしとこ、と思てます。でも、この美術館ができるまでも、開館してからも、遺作展や回顧展、今回の没後40周年記念企画展が開催できたのも、今の嫁さんのおかげなんですよ。理解し、支えてくれたからこそ、できたことです。嫁さんがそんなのやめて、と首を横に振ったら、何もできませんでした。ほんまに感謝しています。」 

−− 二人も素晴らしい奥様に恵まれたということですね?羨ましい限りです。かつては、焼物の絵付けをしておられたとか?

 「絵描きを目指していましたが、絵描きだけですぐにご飯を食べられる訳がないので、焼き物の絵付けをしながら、研究会で絵の勉強をしていました。絵付けで培った技術から、他の絵描きとは違う技法を身に付け、それが武器になったと思います。絵画の世界は、どんな技法を使っても構わないのですが、絵付けには、独特の技法がいくつかあって、僕の作品は、密度の高い、細かな線や表現が特徴になっています。」

 

「僕が24歳の時に、節子と結婚をして、まだ、絵付けもしていましたが、29歳の時に、2人で展覧会を開いたら、僕の方に画商が付いて、初期の頃の絵は全部買い取ってくれました。安い値段でしたが、それからは、絵描きだけでなんとか食いつなげて、子供たちを学校にやれたのは有難かったですね。」

 

−− 万葉の世界をテーマにされるまでは、どのような絵を描いておられたのですか?

 

「元々は、ちょっと社会派的な絵かな、ベトナム戦争の末期の頃は、学園紛争の最中であったこともあって、沖縄に行って黒人兵を描いたり、水俣を描いたりとかね、どちらかというと社会派的な絵でしたね。その後、琵琶湖の西に比良山系があるのですが、昔からの鯖街道が通っていて、その辺りは、古くから伝わる伝統的な踊りがあったり、最近まで土葬が行われていたりしていた地域で、野辺送り、精霊送り、花笠踊り、土俗的なお祭りとか、そういう風土を題材に、心象風景というのか、そういう絵を、節子が亡くなってから10年ぐらい描いていました。その時は全く意識していなかったけど、今、眺めてみると、死んだ嫁さんの鎮魂みたいなもんを引きずっていたような絵でしたなぁ。」

 

「例えば、その辺りは、狩猟民族の名残りが残っていて、シカとか、イノシシとか、クマを獲って食べるんですよ。腹を割いて、内蔵は猟犬たちにやって、ノミやダニ、寄生虫を殺すために、川に1日ぐらい浸けた後、木にぶら下げて捌くんです。真冬の3ヵ月間、そういう風景が見られるんですよ。なんとも凄惨なんだけれども、美しい、静かな風景・・・。血の色は描かず、白とブルーの世界にしてね、人間が生きるって、他者を殺しまくって、命を奪いまくることやなって、そんな思いが詰まった祈りの風景の絵ですね。5月まではここに展示していたのですが、口で言ってもなかなか伝わらんでしょうから、また改めてお見せしますよ。」

 

−− 万葉集を題材に描き始められたきっかけは? 

「ご存知のように、万葉集は、現存する最古の和歌集です。8世紀後半に編集されたといわれています。全20巻で、天皇、貴族から庶民まで、また、仁徳天皇の代(4世紀)から奈良時代までの、あらゆる身分の人の、あらゆる時代の歌が、4516首、収録されています。誰の手によって成立したのかは不明ですが、大伴家持(717?-785)が、最終的な編集に大きな役割を果たしたと考えられています。」

「万葉集の中で最も多いのが、57577の短歌です。中には5と7を長く繰り返す長歌もありますが、ほとんどが、57調です。和歌は宴などで声に出して披露されていたので、そのため声の出しやすさから、自然に57調が定まったと考えられています。また、まだひらがなやカタカナがなかった頃、日本語の読みを書き表すために、漢字が使われていて、このような漢字の使い方が万葉集に多く見られるため、『万葉仮名』と呼ばれ、ご存知のように、これが基になって、ひらがな・カタカナが生まれたんですね。」 

「万葉集の歌は、時代ごとに4期に分類されていて、最も古い、第1期に作られた歌の詠み手は、主に天皇や皇族たちで、皇室の行事や出来事に密着した歌が多く、朝鮮半島に向かう兵を鼓舞した額田王の歌なんかが有名です。第2期は、国家の中央集権化という大きな時代の変化があり、皇族に代わって、柿本人麻呂など、儀式などで歌を詠んだ、いわばプロの詠み手である宮廷歌人が活躍し始め、天皇を神として賛美する歌や感情や自然の雄大さを素朴に表現した歌が多く、第3期は、個人の意識が強くなった時代で、個性的な宮廷歌人が続々と登場し、人間の心や社会の現実を鋭く見つめた歌が多くなります。第4期では、民衆が作った歌が急増して、庶民のこころを描いたもの、関東・東北地方を舞台にして詠まれた『東歌(あずまうた)』や、筑紫・九州北岸地方での防衛のために連れてこられた人々の哀しい『防人歌(さきもりのうた)』などがあります。」

 

「僕が、万葉に目覚めていくのは、昭和49(1974)年に、大津京の遺構が発掘された頃からですね。実は、天智天皇陵は山科にあるのですが、都の位置がはっきりしていませんでした。大津京時代は、5年余と短かったのですが、万葉集は充実期を迎えました。柿本人麻呂は、壬申の乱以降、第2期の代表的な歌人ですが、672年の壬申の乱で滅亡してから16年後ぐらいに、近江大津宮を訪れ、往事を偲んで、『近江の海 夕波千鳥 汝が鳴けば 心もしのに いにしえ思ほゆ』の他、6首も有名な歌を詠んでいます。おっ、オレの住んでいるところは、日本の歴史の重要な舞台やったんや、と気づいて、詠まれた歌の背景や歴史を調べていくと、出るわ、出るわ、おもしろいことがぞくぞく出てきたんで、さらに夢中になって、万葉の世界を描くようになりました。」

 

「大津京の遺構が発見されて、今年で40年、それで、付き合いの深い学者の先生と大津京に関しての本を一緒に出そうということになって、彼が文章を書いて、僕が絵を添えるんです。でも、例えば、大津京の都の伽藍の風景なんて、誰も見たことが無いですよね?それを絵で表現しろ、ってことなんですよ。あとは、当時の市場の様子だとか、小さな都でしたが、国際都市だったので、海外との交流もあっただろうから、人々の往来の様子だとか・・・、人物はいろいろ描いてきていますから描けるんですが、建物が難しいんですよ。」

 

−− 文献や資料だけでどうやってそういう絵を描けるのですか?

 

「発掘された遺構や住居跡、現存している法隆寺や唐招提寺とか時代の近い建物を見て想像力を膨らませます。また、正倉院の御物とかね、それを復元したものとかを克明にスケッチしたり、図録を見て、それらがあった時代の風景を思い描きます。パソコンも携帯も数字を扱うのも大嫌いですが、ちょっとした資料を頭の中で膨らますのは大好きです。万葉人の衣装にしても残っている資料から想像していますが、あくまでも想像ですよ。でも、オーバーを着てはっても、中のヌードは想像して描けるぐらいですから、ハハハハ。手首や首筋を見ただけで、大体わかる、大体。それだけ、ヌードデッサンもしてきましたし、特にオーバーの中のヌードを想像するのは大好きで、長年の積み重ねですね、ハハハハ。万葉人の衣装は頭の中にいくつもありますので、なんぼでも着せ替えることができます。」

 

−− 万葉集の歌を読むとその情景が頭に浮かんでくるっていうことですか?

 

「そうそう、他のことは全然だめですよ。好き嫌いの世界で、そういうことは大好きだから、想像できるんです。インターネットで何でも情報が手に入るという利便性が、想像力を減退させている面もありますよね。僕のように、パソコンもインターネットが本能的に嫌いで、一切しない人間は、ものすごく時代の先端から取り残されているように思っていたのですが、コンピューターはできたものを記憶することは得意ですが、自分で何かを創り出すことはできません。僕は、コンピューターにはできない、言葉や文章から想像して、描いて、絵を創り出していることに気が付きました。ボーッと、バカみたいなことを考えているのが楽しいですし、僕らのような絵描きには大事なことやと思てるんです。」

 

−− 確かにそうですね。それに、先生の絵が、万葉集の歌に付いていたら、読む人もイメージが膨らみ易いですね。

 

「僕の絵は、教科書に使われたり、万葉の文章を書きはる人が、表紙や文中に使ってくれたりしています。韓国へもよく行っていて、『万葉ハセヨ』という日韓対照の万葉訳が出ているのですが、そこにも僕の絵がたくさん使われています。」

 

−− 韓国の人たちが、日本の万葉の世界に興味を持っているのですか?

 

「もちろんです。万葉集の原型が韓国にも中国にもあるんですよ。日本の歴史の中で、中国と韓国とは切っても切れない関係ですよね?当然、文学も影響を受けていて、中国には、既に孔子の時代に詩経という、韓国にも郷歌(ヒャンガ)という、日本の和歌の原型のような歌謡があります。中国や韓国に行って、展覧会をしながら、シンポジウムをしたりして、向こうの研究者や学者さんたちとの交流をしています。」

 

「韓国では、1999年から毎年のように、2000年には、パリのユネスコ本部で、2002年には、世界ツアーで、ドイツ、セネガル、ニューヨークの国連本部、シカゴ、サンフランシスコ、ハワイ、中国等々の国で展覧会をしています。万葉集は、天皇・皇室から庶民まで、さまざまな地域のあらゆる身分の人々の歌が集まった世界でも唯一の文学で、世界の文学といっても良いと思います。その世界を鮮やかな色彩で描いているものですから、どこの国の人々も、興味津々で、非常に反応が良く、おかげさまで、好評なんですよ。」

 

−− 万葉の世界、昔の日本人のこころや情感を絵にして、世界に伝えておられる訳ですね?

 

「そうですね。だから、外務省なんかも応援してくれています。韓国でやった時には、ソウルの大使館が応援してくれて、その時に出会った公使が、今は、ドイツの大使になられて、さらに、応援してもらっています。何も応援が欲しくて万葉集を題材にしたのではなくて、前の嫁さんは、琵琶湖の民話に注目して題材にしたけど、僕は、自分の足元にあった万葉集に注目して、これはおもろいとのめり込んでいった結果、偶然、外務省とつながり、世界の文学ということで、国際連合教育科学文化機関であるパリのユネスコと、多文化との対話というテーマで、ニューヨークの国連本部での開催につながっていった訳です。万葉集がそれだけ大きな広がりを持っていたということでしょう。」

 

−− これまでに何首の歌の絵を描かれたのですか?

 

「4516首あるうちの1000首ぐらいかな、まだ、3000以上、描けてない。もう、古希(70歳)を迎えましたから、後、どんだけ時間もらえるかわからんし、生まれ変わっても、描き切れんかもわからんけど、できる限り、描きたい。『東歌(あずまうた)』や『防人歌(さきもりのうた)』にも興味があるし、万葉集はネタの宝庫で、描きたい世界は無限に広がっています。」

 

−− 琵琶湖疏水の通船復活の活動もされておられるとか?

 

「京都には国内外から年間5,000万人以上の観光客が訪れますが、隣の大津の市街地はシャッター街になりつつあります。その1割とは言わない、せめて、5%でも観光客を呼びたいと思い、『琵琶湖疏水とさざなみの道の会』の会長をしています。」

 

「京都にとって、琵琶湖の水を引くことは、昔からの悲願でもあり、明治維新で東京に皇居が移り、沈み切ってしまった京都に活力を呼び戻すために、琵琶湖疏水の建設が、明治18(1885)年に始まり、5年後の明治23(1890)年に完成しました。」

 

かつて、琵琶湖疏水は物資、人の輸送、飲料用水、蹴上げで発電をする工業用水として活用されていて、大津から京都市内まで2時間あまりで下った舟便は、往事、年間120万の人々が利用したそうですが、鉄道や道路網の発達で、昭和26(1951)年の土砂運搬船を最後に、廃止されました。琵琶湖疏水を観光資源として活用し、京都と大津の再創生につなげたいと思っています。」

 

大津から船を出し、途中、一番長い第一をはじめ、4つのトンネルをくぐりますが、暗いとか、景色が見えないとか、マイナス面ばかり見ないで、トンネルは音響がいいから、レーザーで、光と音の演出等を考えればいいし、トンネルを出たら、舟から、堤の桜などの木々を愛でる。春は花見、秋は紅葉、四季折々の疏水べりの景観を楽しむ『屋形船』、いいでしょ?通船の復活予想図も僕が描き、提案させてもらっています。」

−− この絵を見れば、是非、乗ってみたくなりますよ。

「この辺りは、疏水発祥の地で、取水口もあり、大津で一番古い公園もあります。ところが、30年前に、13階建てのマンション建設計画が持ち上がり、500人の住民を増やすより、大津の歴史、文化を守るため、僕も、先頭に立って、反対運動をして、4年半に渡る戦いでした。その頃から、平安京と大津京の歴史、文化を結ぶ水の道にもなるし、経済も動くと、明治の遺構で、65年前に使われなくなっていた疏水の再活用を提案してきたんですよ。」 

「実は、27年前の昭和62(1987)年に、京都府と滋賀県の両知事と京都、大津の両市長が一緒に船で下って、検討されたことがあったんやけど、琵琶湖の取水口から、蹴上までの区間の約半分がトンネルで、管理する京都市が、安全面の課題を挙げて、実現せえへんかった。」 

「今の大津市長は、選挙に出る前から、疏水活用に理解を示していて、『京都から観光客を呼び込むルートの創設』を公約にも掲げて当選し、京都市長に協議を呼び掛け、再検討が始まることになって、昨年12月、両市長が、第1疏水を、大津市から蹴上まで船に同乗し、現地を確認し、今年、5月に開いたシンポジウムでは、疎水を管理している京都市の水道局長が、本年度中の試験就航を約束して、ようやく、実施の方向に大きく動き出したところです。」

「私らは、『琵琶湖疏水とさざなみの道の会』という市民団体をつくって活動してるんやけど、おもろいで、おもろいで、って、言いまくってその気にさせることしかでけへん。後は、行政や企業の人にやってもらわんとアカン、絵描きにできるんは、イメージを伝えることぐらいでしょ?」

−− それが、すごいコミュニケーション能力じゃないですか? 

「あのね、僕が、もし、頭、良くってね、顔も良かってね、英語も仏語もできたらね、ダメやったと思うわ、伝われへん、英語も仏語も、言葉以上には伝われへんのです。絵や音楽は世界共通語だから、オレ、絵描きでよかったなぁと思てます、アハハハ。」 

−− 福島県南相馬市で似顔絵のボランティア活動をされているとか?

 

「3.11から1年後の2012年に、あの原発から、20km圏内の福島県南相馬市で、福島も万葉集が詠まれているからと頼まれて、家内の焼物も持って行って、万葉展を開きました。その年も、雪が降っていて、寒いし、震災の傷もまだ癒えていないのに、誰が万葉の絵を見にきますか?いろいろな方々と出会いたいと思て来てるのに、どないしたらええやろかと思てね、パラパラと来てはったお客さんをつかまえては、色紙に似顔絵を描き始めたんです。その人の顔の特徴をきちっと踏まえて描かんことには、変につくって、ふざけているように思われたら逆効果やし・・・。最初に描かしてもらった人なんかは、どっちもおずおずとしてたんですが、なんとか座ってもらい、描き始めて、出来上がると、ニコッと笑てくれはって、これ、ただで描いてもろた、あそこいったらただで描いてくれはるって、伝わっていったんですね。その内に、ずらーっと並んでくれはって、大成功でした。」

 

「今のご自分か若い頃か、どちらを描きますか?と尋ねると、まず、99%、若い頃とおっしゃいます。80歳、90歳のお婆ちゃんを18歳の娘の頃に描き替えるんですよ。でもその人でなかったら怒りはるから、勝手につくったらアカン訳です。シワをとって、下がってきたのを持ち上げてあげるだけでええんですわ。それだけで飛び上がって喜んでくれはる。がんばって下さいとか、どんな言葉で声をかけるより、絵であっても、まさしく自分やということで、自分が若返った、若い頃が蘇った、元気が出たと喜んでくれはるのは、こっちも嬉しかった。1人、約5分で、1週間の期間中に300枚書きました。300枚と一口に言っても、大変ですよ。1日、8時間、描き続けました。でも、一方的にサービスしているとか、ボランティアしているとは全然思ってない。勉強させてもらっている、トレーニングさせてもらっていると思っています。それで、また来年も来てねって、実行委員会もできて、翌年からは、日程を9月に変更して、今年も行かせてもらいます。」

 

−− 芸術家で成功するには?

 

「僕なんか、ただ、ご飯を食べられてるだけで、有難いと思てます。上手い人、器用な人、才能を持っている人はいっぱいいるんですよ。でも、一番の才能は続けること。とにかく続けること。しがみついてでも続けられる人が最終的には残る。描き続けることで本当のものが見えてくるような気がします。絵画教室で教えているのですが、結構、上手いなと思う人もいますが、そういう人に限って、途中で辞めてしまいます。そこそこで満足してしまうのでしょうね。最初は下手やなぁと思った人の方が、食らいついてくるから、どんどん上手になっていきます。まず、大きな試練は、食べることに負けないこと、何としてでも、食いつないで、続けられる人こそ、才能がある人やと思います。そこそこ器用で、そこそこ頭のいい人は、あまり大成していません。これしかできないという人は、しがみついてでもやるしか無いから、がんばれるし、ひとつの世界に愚直に打ち込んでいる姿は、人の心も打つんやろうと思います。」

 

「僕はね、理屈抜きに、絵が好きなんやね、仕事で疲れて飲みに行っても、そこでも描いてる。というか、描きたい。とにかく描きたい。描くことが楽しいんやね。」


 芸術だけでなく、ひとつの道を極めようとする者の心得かもしれない。コレゾ財団・賞の趣旨をご説明し、受賞のお願いをしたところ、快諾して下さった。

 

 クマのような風貌だが、とても優しい目をしておられる。筆者の似顔絵もササッと書いて下さった。ご自身が暮らす大津を良くしたいという郷土愛と、絵による災害復興支援も続けておられ、人間愛も溢れんばかりの方だった。これからも万葉の世界を一首でも多く描かれ、世界中に伝えて頂きたい。

 

COREZO(コレゾ) 「とにかく描くのが好き、万葉の世界、昔の日本人のこころや情感を絵にして、世界に伝える日本画家」である。

 

鈴木 靖将(すずき やすまさ)さんに関するお問い合わせは、

 メールで、info@corezo.org まで

 

本サイトに掲載している以外の受賞者の連絡先、住所他、個人情報や個人的なお問い合わせには、一切、返答致しません。

 

COREZO(コレゾ)賞 事務局 (2014.07.最終取材、2014.08.07.編集更新 文責 平野 龍平)

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