小山 鶴吉(こやま つるきち)さん


COREZO
(コレゾ)
「自転車職人ひと筋70年、生涯現役、腕一本でどんな修理も引き受けるまちの自転車屋さん」賞

十八屋小山サイクル 代表 自転車職人

小山鶴吉(こやまつるきち)さん

長野県小布施町

十八屋小山サイクル 代表 

自転車職人


ジャンル

手仕事

自転車職人


受賞者のご紹介

小山 鶴吉(こやま つるきち)さんは、長野電鉄小布施駅から徒歩5分程にある「十八屋小山サイクル」を営んでおられる。

 訪ねると、いかにもまちの自転車屋さんというどこか懐かしい雰囲気のお店である。中をのぞくと、奥のソファに寝転がって本を読んでおられる小山さんらしき姿が見えた。店頭で作業中なら声も掛け易いのだが、どうするか迷った挙句、意を決して中に入った。
−− 常光寺の副住職の林映寿(はやしえいじゅ)さんから、小布施にはどんな自転車の修理でも引き受けるスゴイ自転車屋さんがあると伺って訪ねました。お時間があれば、お話を伺えませんか?

「そうかい、常光寺のご住職は、時々、お孫さんと自転車の修理に来られるよ。それにしても、物好きな人だね。」

−− 都会ではこういうまちの自転車屋さんはすっかり見かけなくなりました。

「ここいらでもそうだよ。もう2軒しか残っちゃいないよ。量販店で買ってさ、すぐ壊れるからさ、修理には持ってくるんだけどね。」


−− 自転車屋になりたくて始められたのですか?

「そう言う訳でもなくってさ、親が早く亡くなったり、色んなことが重なってね、そういう場面にぶつかっちまったんだ。生かされているんだから、生きていかなくっちゃなんないだろ?おマンマ食べるにゃ、働かなくっちゃなんない。その働き先がたまたま自転車屋だっただけで、14の時から18年間、丁稚奉公に出て、小さな自転車屋だったけどね、修理は俺しかいなかったから、まかせてもらってね、俺も自転車が好きだったからね、修理もできたしね、一生懸命働きましたよ。それで、昭和40(1965)年に独立して、ここに店を開いたんだよ。」

「生まれて半年ぐらいの時に、囲炉裏だかなんだかで火傷をして、右手を失くしちゃった。でも、記憶がある時からもう無いんだから、仕方がない。ずっとね、あんたたちの手のように使って来て、皮膚がコブのように角質化して、硬くなっちまった訳だ。81歳の時にね、そこにアカギレのようなのができて、傷口がだんだん広がってきたんで、近所の医者に診てもらったら、信大に行って検査してもらえって云われたんだよ。皮膚がんかと思ったけど、検査したら悪性の腫瘍ではなくてよかったよ。火傷をしたのは昔のことだから、その時の処置がよくなかったのか、コブのようになったところが義手をはめると痛くってね、それで、手術をして、義手も着けられるようにしてもらったんだよ。」

−− どのくらい入院されたのですか? 

「9月に手術して、看護婦さんにもっと居させてくれって頼んだんだけど、1週間足らずで退院させられて、翌年の春までゆっくり養生をして、お客さんが待ってるんで、店を再開しましたよ。」

 −− 手術の後、仕事に差し障りはなかったですか? 

「以前は、こっちに茶碗乗っけても落ことさねぇでご飯食べてたんだけど、コブをとって柔らかくなっちゃったもんだから、義手は着けられるようになったんだけど、ちょっと不自由になっちまった。でも、その軽トラ、オートマチックだけどね、今でも乗ってますよ。免許はね、この店を始めた年に取ったよ。」 

「どうしてもね、健常な人と比べるとどうしても負けるんだよ。でも、負けず嫌いのところがあったからね、自分じゃ負けてるのはわかってるんだから、負けるんだけれど、負けたくねえんだ。でもね、それぐらいの気力がなかったら生きて来れなかったんだよ。」

−− 修理できない自転車ってあるんですか?

「うーん、かつての日本製の自転車はフレームさえ歪んでなければ、まず修理できましたよ。でも、最近の海外生産のものはダメだね。直せないのがいっぱいある。パーツもねぇんだ。それにだよ、今は、工賃も時間いくらだから、1日かけて直したら、職人の手間賃は、1万にでも2万にでもなるんだ。手間が掛かると、新しいのを買った方が安くつくなんてこともある。何をバカなことをしてるんだ、と言われるかもしれないけど、我々はね、時間をかけたり、手間を惜しまないんだよ。修理に持ってくるのは中古だから、5〜6千円の値打ちしかないのに、1万ももらえないやな、2千円ぐらいでいいや、ってなっちゃう。損得なんて考えねぇんだ。」

「商売なのに、なんて言うのは一般の人の常道の考えだ。俺なんか、丁稚奉公の18年間、給料ってもんはもらってねぇんだ。でも、親方におマンマは食わしてもらってたし、休みもあったし、小遣いももらってたし、お金の心配しなくっていいんだから、生きるってことに関しては、今より楽だったよ。だから、工賃なんて観念は頭の中にはねぇんだ。その頃のクセが今でも残ってんだな。パンクでも2箇所あったら2箇所直すし、3箇所あったら3箇所直すけど、1箇所分と同じ料金しかもらわねぇ。チューブがダメなのは替えないといけないから、それは別だけどね。」

「お客さんの喜ぶ顔が励みで一生懸命できるんですよ。少しキザな言い方だけど、こんな不自由な身体になっても、人に喜んでもらうのは嬉しいんだ。ここにね、自転車押して来たお客さんが、いやぁ、小山さん、修理してもらって助かったって、よく言って下さるんだけど、助かったのはこっちなんだ。働かせてもらって、お金までもらうんだから、逆なんだね、有難いじゃないですか?日々、感謝していますよ。我々、サービス業なんだからさ、ハハハハ。」 

「大体ね、自転車屋って名前からして、もう、ひと昔前の商売だけどね。昭和40年に32、3歳でここを始めた当時、まだ輪転っていってた時代に、小山サイクルって、ハイカラな名前を付けたんだよ。小山くん、シャレた名前付けたもんだな、って同業者からよく言われたよ。」

「今みたいに半完成品で届くんではなくて、バラで来る部品を組み立てんだよ。だからこの道具を使ってさ、車輪の輪っかに1本ずつスポークを組んで車輪にするんだよ。横方向の調整はわりと簡単なんだけど、縦方向は、小さな工具でスポークを少しずつ調整して、 真円を出さなければなんないから、難しいんだよ。ネジの締め具合だけだからさ、身につけるのに2〜3年かかったね。今やれるのは、我々の世代しかいないじゃないかねぇ。昔は1台組み立てるのに3時間ぐらい掛かりましたよ。今は、車輪はめて、ハンドル取り付けたり、ブレーキ調整して完成だから、1時間もかかんねぇ、40分ぐらいでできちゃうわな。」

−− 何の測定器やセンサーも使わず、感だけでやるんですか?

「そうだよ。自転車が飛ぶように売れた昭和40年代、50年代頃にゃ、日曜日なんて朝早くから5台も6台も組み立てましたよ。その頃は、組み立ての工賃、手間賃も入ったので、利益もあったよね。ホンダがカブってバイクを出して、それも飛ぶように売れたしさ、大阪万博にも行ったし、京都へは何度も行きましたよ。嵐山の屋形船で行くいい旅館にも・・・。どこも自転車メーカーの招待で連れて行ってもらったんだよ。いい時代だったね。今は、何もかも簡単になっちまって、売っても利益出ねえもん。」

−− お店を継ぐ人は?

「77歳の時におっかあを亡くすまでは、娘婿が勤めを辞めて一緒にやってくれてたんだけど、今じゃこんな商売だからね、孫もデカくなるもんだから、勤めてもらって、俺、まだこれできるし、小遣い稼ぎ程度に続けられりゃいいや、ってことになった訳だ。」

−− せっかくの修理技術も残していけないんですね?

 「自転車屋ってたって半完成品で来る訳だから、ハンドルやサドル、ペダルを取り付けて、ブレーキ調整すればいいんだもん、もう技術も何もねえ、販売が主だよ。実際、量販店が増えているでしょ?規模を大きくして、数売るのが商売さ、修理なんてしてたら割に合わねぇ。」

−− 小山さんの世代が最後の自転車の職人さんになってしまうかもしれませんね?

「うーん、そうだね、小僧生活をしたっていうのは我々の年代で終わりじゃねぇかな。小布施から隣町の須坂にかけて昔は自転車屋が36軒もあったんだけど、今は、12軒ぐらいしか残っていねぇよ。昭和40年にこの店を開いた当時は、この辺の自転車屋では、俺が一番若かったんだけどね、自分より上の人たちが隠れていなくなって、自分が一番上になっちまった。あれっ?年寄りがいなくなっちまったなぁって、自分が年寄りになったのがわかってないんだよ、ハハハハ。」

「俺は、携帯もメールもやらないし、わかんないし、もうすっかり時代遅れだね。時々、長野電鉄に乗って長野まで行くんだけど、ヒマだから見てるとね、どのお客さんも電車に乗ると同時に、携帯だか何だかをいじってんだ。何を見てんだかね、よくわかんないけどさ、何だか異様な光景だね。よくあれで駅乗り過ごさないなって感心するよ。歩きながらとか、自転車や自動車を運転しながらやっちゃいけねぇな、危なくってしょうがねぇ。」

「娘の家族と一緒に住んでるから賑やかなんだけど、昼間は俺ひとりだから、お客さんが来るのを待ちながら、こうして寝っころがって本なんか読んでんだ。酒は一滴も飲まねぇけど、甘いものは滅法好きなんだ。だから、いつもこういうお菓子を置いててね、お客さんに出す前に、全部自分で食っちまうんだ。それにコーヒーも好きだから、朝起きたらコンビニに車で買いに行くんだ。甘いものに甘いものは合わないからね、ブラックだよ、ハハハハ。」

COREZO(コレゾ)財団・賞の趣旨をご説明して、受賞のお願いをしたところ、

「日陰もんを日向に出すっていうか、こんな一銭にもならないことをやるなんて、人のために尽くすっていうかそういう精神がなければ、できないよね?なかなか奇特な人だね。」

−− そんな大層なことを考えている訳ではなく、自分の子供にホンモノを選択できる自由と権利を残して、選ぶ目を身に付けさせてやりたいと思ったのが最初のきっかけです。修理もできない安価な自転車を次々に買い替えるのと、多少高価でも修理ができて長年乗り続けるのとどちらがいいか、という選択ってことです。自転車の修理をできる人がいなくなれば、後者の選択肢がなくなるってことを伝えたいのです。

「よく言われるんだけど、いわゆる職人気質ってヤツ・・・、自分では変わってるとは思っちゃいないんだけど、そんな性分なんだよ。こいつが商売にはイケねぇんだ。間違ってると思っても受け流してしまえば、無難で、儲かるんだけどね、短気で、頑固者だし、自分の気持ちを通そうとしちまうから、ダメなんだな、いつまで経ってもウダツが上がんねぇ。」

−− でも、そういう気持ちが無くなったら、こういうご商売は続けられないのでは?

「そうかも知んないな。ウチは俺の三代も四代も前から貧乏して苦労したんだけど、ご先祖さまは、文化文政の頃、江戸日本橋本銀町(ほんしろがねちょう・現在の日本橋本石町あたり)で十八屋という屋号で呉服屋をしてたんだ。それで、俺がひとり立ちした時に、十八屋という屋号を復活させて、小山サイクルの前に入れたんだよ。」

「こんな商売をしてるとね、いろんな人が来てくれるんだ。小布施に北斎館ができたおかげで、当時のウチの商売に関するいろんな資料も出てきて、そんな資料も持ってきてくれるんだよ。」 

 北斎(1760?〜1849年)が小布施に初めて訪れたのは、80歳を過ぎた1842年とされていて、交通手段もない江戸時代に、片道250km以上ある江戸〜小布施間の山岳路もあっただろう昔の街道をどのように往復したのか、疑問に思っていたのだが、少し気になったので調べてみた。 

 とてつもなく元気で健脚の老人だったならば、徒歩での移動も考えられなくもないが、可能性は薄いだろう。誰かの金銭的なサポートがあって、駕篭か何かで移動したのではなかろうかと推測していたが、江戸日本橋本銀町(ほんしろがねちょう)に店舗を持っていた小布施出身の商家・十八屋(じゅうはちや)が、北斎に金銭の工面や交通手段の提供をしたのでないかという説がある。

 十八屋と北斎の関係は、十八屋(当主:小山文右衛門:1776~?[1857年までは生存])に宛てた北斎の手紙が現在4通あるのが知られ、江戸でかなり親密な関係にあったそうだ。小布施〜江戸間の諸品の運搬に便乗して移動していたのなら、説明がつく。

 ところが、岩松院天井画が描かれたとされる2年前、弘化3(1846)年、江戸大火によって、十八屋の本銀町の店舗、土蔵他は、諸品共々、全て消失してしまい、その後、多額の借金を背負ったという記録も残っており、その後は、十八屋に頼ることはできなかったのではないかと推測され、それ以降、誰がサポートをしたのかは調べていないが、なるほど、小山さんの三〜四代前から苦労されたという話とも符合している。

「昭和27〜8の頃、東京へ夜行で行ったんだ。昔は、夜11時頃に乗って、上野に着くのが翌朝の4時か5時頃だ。カーキ色の外套を着て雑囊袋を持った復員兵の格好をした人が向いの席に座っていて、易をみる人だったんだろうか、俺も丈の長いオーバーに手を突っ込んでたんで、不自由なのはわからなかったと思うんだけどね、大変失礼だけど、身体のどこか故障かなんかしていなさって、大変なご苦労なさっているのが相に出てると云うんだね。そうかい、俺、いたって陽気でそんなことねぇです、って言い返したんだけど、そんなことないはず、でも、人生の終わりにはいいニュースがたくさん入ってきますよ、って云うんだよ。今でもその時のことはよく覚えてるよ。それを信じている訳だ、いまだに・・・。」

−− あ、勿論、これはそれじゃないですよ。COREZO(コレゾ)賞の表彰式を被害者の会と呼んでる受賞者も多いんですよ。

「ハハハハ、いやいや、人間というものは、お金とかの利益ではなく、何か温かい気持ちを与えてもらえるというのは、幸せをもらうというか・・・、特に、我々、障害者にとってはものすごく嬉しいんですね。これは健常者の皆さんにはわかんないかもしんねぇなぁ。私ら、障害者3級の手帳を持って、そこいらに出掛けて行くんだけど、親切にされたり、温もりを感じた時には・・・、んー、俺は今、四畳半でひとりで寝てるんだけど、おそらく、今夜は一晩中、寝ないんじゃないかな。要するにね、感情の起伏が激しいだよ。自分の想いを通したいがために、頑固なところもありますよ。でも、温かい気持ちに触れちまうと、イチコロでまいっちまう、すっかりその気になるんだね。物事を考えるところがあってね、今夜は、コレゾっていうのを考えて、朝方まで眠れないんじゃないかい。」

−− 親切とか、小山さんが障害者だからとかは、関係ありませんよ。他に知らないから比較はできないし、そもそも、小山さんは、小山さんであって、COREZO(コレゾ)賞は相対的に他の誰かと比較して受賞してもらう賞ではないから、比較するつもりもないし、小山さんは、COREZO(コレゾ)自転車職人さんに違いないので受賞をお願いしているんですよ。

「ん?いいんだ。どう受取るかは俺の勝手だ。学者も自分の宝物を探すのに勉強したり、調査したり、研究するんじゃないですか?コレゾというのを見つけた時が醍醐味なんじゃないのかな。表彰式は、12月の6日だね?こんな温かいいい話はカレンダーに書いておかなきゃ忘れちゃうからね。場所は役場の講堂だね?随分とおしゃべりしちまったなぁ。元々さ、雄弁なんだよ。他に取り柄がねぇんだ、ハハハハ。」

−− こちらこそ、突然お邪魔して申し訳ありませんでした。腕の立つ自転車職人さんはおしゃべりだと書いときます。最後に、写真を何カットか撮らせて下さい 

 「えーっ、写真撮んの?アタマ、光り過ぎてカメラに写んないよ。ハンチングでもかぶってくるよ。」

 

 COREZO(コレゾ)「自転車職人ひと筋70年、生涯現役、腕一本でどんな修理も引き受けるまちの自転車屋さん」である。

 

 小山鶴吉(こやまつるきち)さんに関するお問い合わせは

  メールで、info@corezo.org まで

 ※本サイトに掲載している以外の受賞者の連絡先、住所他、個人情報や個人的なお問い合わせには、一切、返答致しません。

 

COREZO(コレゾ)賞 事務局 (2014.07.取材、2014.07.11.編集更新 文責 平野 龍平)

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