高橋 力さん

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 COREZO(コレゾ)「後藤新平ひと筋、一に人、二に人、三に人、その功績、生き方を伝え、全国のネットワークをつくり、交流人口を拡大する館長」賞 

高橋 力(たかはし ちから)さん

 

岩手県奥州市出身、在住

奥州市立後藤新平記念館 館長

 


ジャンル

人的ネットワーク

交流人口拡大

郷土の偉人の功績・生き方の伝承

 

 

経歴・実績

 

旧水沢市、奥州市の職員を経て、

2012年 奥州市立後藤新平記念館長

 

受賞者のご紹介

高橋 力(たかはし ちから)さんは、「後藤新平ひと筋」の奥州市立後藤新平記念館の館長さん。

 

 2013年5月、大歩危峡まんなかの大平社長のご紹介でお目に掛かった。「線路でつなぐ交流チャリティコンサート in 四国鉄道文化館」に来賓として出席されるために四国に来られていた。

 

 「線路でつなぐ交流チャリティコンサート in 四国鉄道文化館」というのは、岩手県奥州市、徳島県三好市、愛媛県伊予市、そして西条市、4市による交流事業で、東北復興支援のチャリティコンサートがJR四国予讃線の西条駅に隣接する四国鉄道文化館で開催された。

 

 1909(明治42)年、岩手県奥州市(旧水沢市)出身の政治家、後藤新平(1857ー1929)が逓信大臣時代に、土佐に向かう途中で立ち寄った大歩危の紅葉の美しさに目を奪われ、「岩に題す 天下第一 歩危の秋」と詠んだ句によって、大歩危は天下の名勝として世に広まったそうで、大歩危峡でレストランと観光遊覧船業を営む「大歩危峡まんなか」には、その句碑がある。また、毎年、「大歩危峡まんなか」では、春から夏にかけて、渓谷の両岸にワイヤを張り、数多くのこいのぼりを掲揚し、季節の風物詩となり、観光客を楽しませている。

 

 2011年、東日本大震災が起こって、震災直後から「大歩危峡まんなか」を中心に、地域住民が、義援金の募金をはじめ、復興支援活動をして来られたが、三好市山城町の下名(しもみょう)小学校の児童たちが、被災者を励まそうと、「みんなで力を合わせよう」などとメッセージを書いたこいのぼりを「大歩危峡まんなか」を通じて送ったことがきっかけとなって、東日本大震災被災地である岩手県奥州市の水沢小学校との交流が始まった。

 

 愛媛県西条市出身の十河信二は、初代国鉄総裁であった後藤新平に出会い、当時の鉄道院に奉職したという縁があり、「新幹線生みの親」と呼ばれ、第4代国鉄総裁として、東海道新幹線の建設を実現した。JR四国西条駅には十河信二記念館が併設されている。

 

 また、そのチャリティコンサートには、2012年12月、JR四国坪尻駅で開催されたクリスマスコンサートに出演し、大歩危峡で宿泊したことがご縁となって、JR四国の皆さんや大歩危峡周辺住民の皆さんとの交流が始まった音楽家で指揮者の金岡秀典さん、その金岡さんが指揮者を務める奥州市の市民楽団の団員、そして、下名小学校の児童たちや、西条市の音楽活動グループが出演し、坪尻駅のクリスマスコンサートが手本にしたJR四国下灘駅がある伊予市も参加して、4市の物産の展示即売会も併催された。

 

 このように、後藤新平を通じた色々な人と人の出会いと交流から、「線路でつなぐ交流チャリティコンサート in 四国鉄道文化館」が実現したのである。

 

 大歩危峡まんなかの大平社長ご夫妻が、そのコンサートにご出席頂いたお礼に岩手県奥州市の高橋館長のところへ行くとおっしゃるので、岩手県金ケ崎町で開催される「幽霊化け物妖怪会議」というイベントに参加したり、金岡さんが指揮者を務めておられる奥州市の市民楽団「みなみ吹奏楽団」の皆さんへの表敬訪問も兼ねて、ご一緒させて頂いた。

 

 2013年8月、高橋館長は、JR水沢江刺駅で出迎えて下さって、市内各所、周辺観光地等をご案内して下さった。

 

 そして、肝心の「後藤新平記念館」にも訪問し、館内をご案内頂きながら、後藤新平さんの足跡、人物像等を伺った。

 

 「後藤新平は、1857年、胆沢郡塩竃村(現奥州市)に生まれ、父親は、水沢伊達氏とよばれた留守家の家臣で、母親は、同じ留守家の藩医坂野家からお嫁に来た人でした。」

 

 「留守家の奥小姓(主君の身近に仕える小姓)から、維新の改革後は水沢県給仕(雑用係)となり、家が貧しかったため、いつも着る物は破れ目を紙よりでとじ合せたような身なりでしたが、いつも心は錦で、勉学に励み、周囲の影響もあって医者になりました。」

 

 「そして、24才の若さで愛知病院長となった翌年、自由党総裁だった板垣退助が暴漢に襲われる事件があり、もし何かあってはと他の医師が尻込みをする中、新平はその手当てをしました。これが、「板垣死すとも自由は死せず」という有名な言葉を残した事件で、新平の名が広く世間に広まる事にもなりました。」

 

 「1890(明治23)年、実際の欧米の先進地を見る事が、今後のためになると考えた新平は、ツベルクリンの発見者コッホの研究所に自費で留学をしました。そこでは、北里柴三郎が助手として働いていました。そして、新平はわずか2年で、ミュンヘン大博士試験に合格しました。」

 

 「まだ一介の医者だった頃、内務省に送った国の衛生行政に関する意見書が、当時の局長の眼にとまり、一病院長としておくのは勿体ないと、内務省衛生局の役人に転身しました。その後、内務省衛生局長になって間もなく、元相馬藩の家臣の借金の保証人になったことから、裁判沙汰(相馬事件)に巻き込まれ、無罪となりましたが、衛生局長の職は失ってしまいました。」

 

 「浪人生活の後、1895(明治28)年、陸軍検疫部に入った新平は、僅か2ヶ月という短期間で、広島県似島に総建坪22,660坪、401塔の検疫所を見事に完成させました。検疫所建設の前後4ヶ月は、朝7時から晩9時まで椅子に腰を下ろした事はなかったといいます。なお、日清戦争後の検疫で消毒した艦船は687隻、総人員23万人強、その内コレラ患者総数1500人でした。これに関して、当時のドイツ皇帝は、「この方面では世界一と自信をもっていたが、この似島(ニノシマ)の検疫所には負けた」と舌をまいたそうです。この事業の成功で内外から絶賛され、再び内務省衛生局長に就任しました。」

 

「さらに、台湾の阿片政策に関しての建言書を政府に提出して採用され、それをきっかけに1895(明治28)年、台湾の民政長官に就任し、8年間、新平は台湾の建設のために全力で働きました。『社会の習慣や制度は、生物と同様で相応の理由と必要性から発生したものであり、無理に変更すれば当然大きな反発を招く。よって現地を知悉し、状況に合わせた施政をおこなっていくべきである』と、徹底した調査を行い、経済改革とインフラ整備を行いました。」

 

 「1906(明治39)年、南満州鉄道株式会社の初代総裁に抜擢され、鉄道の広軌化をはじめとした都市開発を積極的に進めました。」

 

「1908 (明治41) 年、第2次桂内閣が成立して、新平は満鉄を管轄下に置くことを条件に逓信大臣・初代鉄道院総裁に就任し、日露戦争勝利後の国威発揚を念頭に、『世界があっと驚くような駅をつくれ』と、設計を任されていた辰野金吾に指示をして、東京駅舎を作らせ、国の輸送拡大に是非必要であると広軌論を提唱し、夜通し働く鉄道員の宿舎を、周囲の雑音から閉ざして充分に休息がとれるように高塀にしたりと、小さな事から、大きな事までよく気のつく人物でした。」

 

 「1920(大正9)年、東京市長に着任した新平は、まず、当時、年間2万円だったものを2万5千円にしろと自分の給料の値上げを要求しました。言われた方も驚きましたが、余りに強い要求だったので、その通りにすると、所得税分の3千円は自腹を切って、支給された給料全額を市に寄付をしたと言う事です。この寄付金は、当時東京市があまり行っていなかった社会教育費に充てられました。」

 

 「人を採用する場合、後藤は常に『人間には鍛錬が必要で、20貫(=3.75kg)の力しかない人にでもどしどし30貫の仕事を背負わせねばならない。そうして汗水流して苦労する事で、自然に30貫の力が養われるばかりではなく、仕事そのものもかえってうまくいくものである』と言っていたそうです。」

 

 「1923(大正12)年9月1日、関東大震災が発生しました。同年4月に東京市長を辞していた新平は再び内務大臣に就き、震災後の応急措置とその後の復興計画に尽力しました。そして、新平の描いた復興プランによって、現在の東京の骨格がつくられました。」

 

「また、新平は、現在の日本放送協会の前身である、東京放送局の初代総裁を努め、放送の父とも呼ばれました。」

 

「新平の洋行土産には、少年団(ボーイスカウト)もありました。ロンドンで、ボーイスカウトの訓練を見て、深く心に期す所があり、1922(大正11)年、全国少年団をつくり、そのモットーは、『自治三訣』でした。『自治三訣』とは『人のお世話にならぬよう、人のお世話をするよう、そしてむくいを求めぬよう』という意味です。新平は少年団を心から愛し、ロシア出発の際には、全国団員から、もち米3粒を集めて炊いた赤飯をご馳走になり、沢山のお守りも寄せられて、『自分もこの年になるまで、数限りないご馳走や感謝を受けて来たが、今日程感動させられた事はない』と、おいおい泣き出してしまったそうです。」

 

 「そして、1929(昭和4)年、新平は、医学会出席のため岡山へ行く途中、夜行列車の中で、心臓発作を起こし、71才の生涯を閉じました。最期に、『よく聞け、金を残して死ぬ者は下だ。
仕事を残して死ぬ者は中だ。
人を残して死ぬ者は上だ。よく覚えておけ』という言葉を残しました。」

 

−− どのような経緯で「後藤新平記念館」の館長になられたのですか?

 

 「私は、旧水沢市役所を経て、合併後の奥州市役所に勤めていました。若い頃から、後藤新平伯を尊敬しておりましたが、市職員時代に、仕事の参考にしようと、郷土の先人であり、行政マンでもあった後藤伯のことを調べるうちに、医療や台湾の近代化、関東大震災の復興計画など、多分野で大きな功績を残しておられるのを知り、また、その為人にも魅かれ、個人的に研究をするようになりました。」

 

 「2009年には、県内外の150人を超える会員がその精神の継承発展に取り組む後藤新平顕彰会に入会し、同時に理事にもして頂きました。調査研究部会に所属して、国内のゆかりの地を会員とともに訪ね歩き、研究を重ねています。」

 

 「そして、定年退職後、後藤伯が第三代学長を務めた拓殖大大学院に入学して、地方自治の在り方を学び、道州制についての修士論文で、大学院を修了したのですが、記念館前館長退任のタイミングと重なり、有難いことに、こちらの館長の話を頂き、2012年に就任しました。」

 

−− 若い人たちに混じって勉強されたのですか?

 

 「そうです。こういうオジサンですから、学生食堂等では、結構、目立っていたようで、若い女子学生からもよく声を掛けられたりして、楽しいキャンパス生活を送らせてもらいましたよ。」

 

−− 勉強不足で、恥ずかしながら、後藤新平伯のお名前と大きな功績は、存じ上げているという程度でしたが、東日本大震災後、関東大震災後に後藤新平が打ち上げた大胆な復興計画から学べ、というような内容のテレビの番組を見て、今の政治家にも学んで欲しいと思いました。

 

 「その通りだと思います。震災後2年以上が経過しても、復旧・復興が進んでいないのが被災地の実情です。それは歯がゆいばかりです。実は、1923(大正12)年の関東大震災直後、後藤が内務相兼務で帝都復興院総裁に就任する前日付の新聞をネットオークションで見つけて、入手しました。後藤が注力した復興の取り組み、予算15億円から30億円までの復興都市計画4案を立案したことや、遂行に伴う焼失域の土地問題、財源問題を報じていました。当時の年間国家予算15億円(1922年)を上回る規模の復興構想は、結果的に財政事情が許さず、大幅に縮小されましたが、震災直後に壮大な計画をまとめ上げた後藤の指導力や先見性には大きな教訓があると思います。」

 

−− これからどのような活動を?

 

 「明治、大正と近代国家形成の激動期に生きた後藤伯は、先見性、洞察力、スケールの大きさなど、常に時代の先駆けとなり、今の次代へと繋がる数多くの功績を幅広く残しています。」

 「後藤新平に関しては、まだ解析されていない資料も多く、学生や研究者に呼びかけて、積極的に受け入れ、調査に当たってもらう企画も考え、この記念館を調査・研究を通じて交流の拠点とする構想も考えています。」

 

 「後藤新平顕彰会では、この郷土の偉人の足跡や生き方を地元の子供たちが学ぶ「寺子屋」を主催しています。当記念館もなんらかの形で協力して、先見の政治家の偉業を後世に伝え、郷土への誇りを育む場にしていきたいと思います。」


 

 「後藤伯が、『一に人、二に人、三に人』と語ったように、政治にしても、震災復興にしても、地方自治にしても、地域づくりにしても、人が全てだと思います。『寺子屋』では次世代に活躍できる人材を育て、また、今回、こうして徳島や関西からお越し頂いたように、後藤を通した全国のネットワークをつくり、交流人口増加につなげたいと思います。」

 

 その夜、高橋館長が個人的に懇親会を主催して下さって、大歩危峡まんなかの大平夫妻、神奈川から駆けつけて下さった音楽家の金岡秀典さん、茨城から来られた筑波大の妖怪研究家、市川寛也さん、そして、奥州市の「みなみ吹奏楽団」団員の皆さんが集まり、高橋さんは音楽が趣味で、クラリネットを演奏しておられるそうで、音楽談義でも盛り上がり、さらに交流が深まった。これも後藤新平さんのおかげかもしれない。

 

COREZO (コレゾ)後藤新平ひと筋、一に人、二に人、三に人、その功績、生き方を伝え、全国のネットワークをつくり、交流人口を拡大する館長である。

 

高橋 力(たかはし ちから)さん関するお問い合わせは

メールで、info@corezo.org まで

※本サイトに掲載している以外の受賞者の連絡先、住所他、個人情報や個人的なお問い合わせには、返答致しません。

 

COREZO (コレゾ)賞 事務局 (文責 平野龍平 最終取材2013.08. 編集更新2013.10.22.)

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