市村 次夫(いちむら つぎお)さん

COREZO(コレゾ)
「町並み修景事業を通じて、小布施固有の歴史、文化、精神、日常生活を維持する町づくり」賞

株式会社桝一市村酒造場 代表取締役

市村 次夫(いちむら つぎお)さん


長野県小布施町

株式会社桝一市村酒造場 代表取締役
小布施堂 代表取締役


ジャンル

地域・まちづくり
食づくり
文化づくり


受賞者のご紹介

 市村 次夫(いちむら つぎお)さんは、長野県小布施町の小布施堂、桝一市村酒造場の代表取締役。カワラマンの山田脩二さんのご紹介でお目に掛かることができた。

 

−− 今年度(2014年)のCOREZO(コレゾ)賞表彰式の開催をお引受け頂いて有難うございます。

 

「金石君、西山君たちがおもしろいと思うならやってみれば、と言ったのですが、実際に、去年、大歩危での表彰式に出席して、おもしろかったですし、町長も乗り気なので、良かったですね。」

 

−− 市村家の何代目ですか?

 

「侍を失業して、帰農してからの当主としては17代目なんですけれども、商売上では、酒屋で11代目、栗菓子屋で4代目です。戦国時代は猫も杓子もお侍だったんですが、平和な時代になると出来の悪いのから、リストラされたんですよ。主家が滅ぶと、帰農したとか失業したっていうんですけど、正確に言うと、主家が滅びても、優秀なのは仕官しているんですね。中級、下級の家臣の並の連中は、軍人として役に立たないから帰農したんです。だから、当たり前の話ですが、時代的には400〜350年前に帰農した家が多いので、今、日本全国でも、16〜7代目という家が多いはずです。」

 

「30数年前に父親が亡くなって、小布施に戻り、家業を継いで、この家屋敷の維持はどうして行こうかと考えた時に、商売のために家屋敷があっても、家屋敷のために商売があっても、その辺はごっちゃにしてもおもしろいだろうし、家屋敷込みで商品なんだろうな、という感覚はなんとなくありました。」

 

「酒造りの職人さんたちは、15人ぐらいでチームを組み、泊まり込みで来ていました。その内の2人は桶屋さんで、桶屋さんも酒造りのメンバーなのに、酒蔵とか精米所には入らないで、桶屋小屋で1日中桶づくりをしているんですね。また、小布施の町中だけでも、鍛冶屋さんが5軒ぐらいあって、ウチの和食レストランの蔵部の建物でも60年ほど前に増築した部分は、そんな鍛冶屋さんがつくった鉄骨を構造材に使って、出入りの職人がブロックを積んで、屋根屋が屋根を掛けてなんて、今では、そんな職人を使ってやるのは、コスト高で、効率が悪いんだけど、地方の企業は、自分の商売の周りにいろんな職人がいるという背景も全てトータルで商品として考えた方がいいような気がします。」

 

「結局、文化というものは生産だけではなく、その利用も入ってこないと生まれないんですよ。地方ならではの競争力というのは、色々あるけれど、最先端も含めて、組み込んで行かなければいけないんですね。新しいもの、古いものに関わらず、全て取り入れ、出来る限りいろいろな人間も身の回りに集めて、育成して行くことが、地方の企業としての企業力だろうと思います。」

 

−− 酒屋さんの創業は?

 

「今は道路になった場所にあった蔵が、1700年前後ではないかといわれていますが、実物も、文献も残っていません。1775年に造った蔵が残っているので、それを創業といっています。酒屋っていうのは、江戸時代の1600年代までは、消費立地型で、町場とか神社仏閣のそばとか、消費地に近いところに多くて、そのうち、1700年代になって米政策が始まると、米作りの生産地周辺で始まるんですね。ですから、町場に残っている酒屋というのは、すごく古い400年ぐらい前からやっているところか、最近、ここ数十年かのどちらかです。郊外にある酒屋は1700年代が多くて、桝一もそのひとつです。」

 

−− 栗菓子はいつから?

 

「小布施の栗菓子は、砂糖が手に入るようになった1800年代の始めぐらいからあったらしいのですが、明治30年代に、保存性の良い缶詰の技術が導入されるようになって、通年商品になるということで、ウチは、菓子屋ではなく、菓子工場として栗菓子に参入したんです。当初は、菓子メーカーだったので、店舗は持たず、東京のデパート等に納品していました。小布施が栗菓子で全国的に有名になるのは、昭和になってからですね。」

 

「落雁という、米等からつくったデンプン質の粉に水あめや砂糖を混ぜて、型に押して乾燥させた干菓子があるのですが、35年前に小布施に戻ってきて、昔は、小布施は栗落雁で有名だったのが赤えんどうの豆落雁になったと聞いて、疑問に感じ、いろいろ栗の落雁を研究したのですが、栗は乾燥するとどうもおいしくないのです。それで、早い段階から分子構造のよく似ている赤えんどうが使われるようになったと結論づけました。でも、栗落雁を諦め切れず、狭い意味では落雁ではなく、押型という菓子に分類されるのですが、少し湿り気を持たせた『くりは奈』という生落雁をつくりました。でも、これも、封を切って時間が経って乾燥するとおいしくなくなります。」

 

−− 小布施が一躍、全国的に有名になった『小布施町町並み修景事業』とは?

 

「背景を先に説明しますと、小布施は、昭和40年代半ばまで、観光とは全く無縁で、観光客は『0』の町でした。父親が小布施町長をやっていて、亡くなる2〜3年前の昭和51(1976)年に『北斎館』をオープンして、初年度に3万人集客し、他の栗菓子屋さんが始めた『栗おこわ』が人気になって、その相乗効果で、観光客が来始めていました。」

 

「そんな頃、今の小布施町長と私はいとこ同士で、町長の方が1年先に、私は31歳の時に父が亡くなったので、前後して小布施に戻ってきました。私は、勤めていた会社に骨を埋めるつもりでいたのですが、サラリーマンは30歳からが勝負でしょ?勝負しないまま帰って来きたんですね、ハハハハ。」

 

「我々が、子供の頃は、町の佇まいにまだそれなりの雰囲気があったのですが、大学、就職と町を離れているうちに、高度成長期を迎えて、車社会に便利なように中途半端に近代化して、町並みに趣きが無くなっていました。北斎が晩年滞在した町、栗菓子の町と云われて、メディアがつくった世間のイメージは、その実態に比べて、はるかに高くなっていたので、イメージが高いうちに、ギャップを埋めて、実態も期待に応えるものにしていきたいなと、いとこと話し合っていました。」

 

「父が亡くなった後、当時の助役が町長になって、今、『高井鴻山記念館』があるところを買い取って、一般公開するって言い出したんです。いわゆる、『北斎館』の二番煎じですね。それで、あの町長のセンスに任していたらマズいことになると、町並み保存関係のセミナーに出掛けたり、猛勉強をしました。幸い、町が買い取った土地は、道路から島みたいに飛び地になっていたものですから、信金なり、ウチなり、その他の地権者が何らかの協力をしないと、開発はできませんでした。町が具体的な計画を出す前に、先にこちらでプランニングをして、町も一当事者として参加させようというのが、『小布施町町並み修景事業』でした。行政主導で、小布施がどこにでもあるような観光地に成り下がるのを阻止する、一種の防御的計画だったともいえます。」

 

「それで、この時のプランニングという意味は、建物のデザインという意味ではなくて、直接町がやろうとしている部分と隣接している地権者が4者いたのですが、土地の等価交換を当事者同士でやって、先に、町以外の民間の地権者4者でこのエリア全体の構想のコンセンサスをまとめた上で、町にコーディネーターとしてではなく、一当事者として加わりませんか、と提案したんですよ。」

 

−− その具体的な構想とは

 

「修景というのは、既存のものを変えて、住民が楽しく快適に住むことのできる環境をつくっていくことで、地域住民が楽しい日常生活が維持できてこそ、その結果として、観光客もその楽しさを体感したいと訪れて下さるのです。だから、町並み保存とは一線を画しています。」

 

「長い間に育まれた歴史、文化、精神等が背景にある住民の生活があっての小布施の風景なのです。我々は、酒や菓子を生産して、販売していますが、あと、飲んだり、食べたり、働く、学ぶ、遊ぶ、・・・、日常生活の全てのシーン、そういう機能の複合性がおもしろさなんです。今は、都市計画の世界で、『混在性』という便利な言葉ができましたが、当時は、説明するのに苦労しました。」

 

「そのためには、車を否定して、車のない時代に戻すのではなくて、車社会を取り込んだ形、テレビのアンテナや現代生活も否定しない形で景観整備をやっていこうということです。同じ長野県でも妻籠なんかは正反対で、テレビのアンテナなんかはとんでもない、洗濯物も見えちゃいけない、江戸時代にタイムスリップした町だから、コーヒーもイメージを損なうと・・・。町並み全体が古いところはそれでもいいかもしれませんが、小布施はむしろ、生活を窮屈にするのはもっての外、近代的な工場も町の風景に積極的に取り入れ、しかし、建物は全体的に調和のとれたものにしていこうという方向性です。」

 

「ヨーロッパの古い町並みを売り物にしている観光地によくあるでしょ?近郊の別のところで、近代的な住居に住んで、観光客のためにだけ、観光客より早くその観光地に通ってくるなんていうのは、何の生活感もリアリティもなく、テーマパークと何ら変わりありません。」

 

「小布施もちょっと有名になると、有識者と称する人たちがやって来て、小布施もローテンブルクを目指して欲しいとか、訳のわからんことを言うんですよ。何もわかってないなこの人たちは、って思いましたよ。それから、10年以上後になって、横浜のみなとみらい21に関わる人たちなんかが見学に来るようになって、これでよし、ようやく、小布施はテーマパークではないというのが伝わり始めた、と思いましたね。」

 

「具体的には、宮本忠長さんという建築家をコーディネーターに迎えて、『外はみんなのもの、内は自分のもの』というコンセプトで、建物の内側は所有者の自由だが、外側は近隣や町全体の共有のものとみなし、また、住居に塀をかけず、内庭をみせ、通りに緑という景観を提供するというオープンガーデンという考え方も導入して、構想を練りました。」


「合理的な配置にするため、伝統的な曳き家という技術を使って、既存の建物を壊さないで移動しました。駐車場は、小布施堂、小布施町、長野信用金庫小布施支店共同で25台分用意しました。金融機関は土日の駐車場利用者が少なく、小布施堂や高井鴻山記念館はその逆であることから シェアリングの合理性も考えています。また、高低差があったのですが、段差を設けず、駐車場然としないデザインにして、お祭り広場的にも使えるように工夫しています。」

 

「町中でも、土日、金融機関の駐車場はガランとしていますよね、ガランとさせておくこと自体が町の味気なさを誘っちゃう訳ですから、当事者にも責任があるんですよ。昔は、土日、ビジネス街は休みだから、ガランとしていて当たり前と言ってたのが、今は違うというのと同じで、土日、人気のないのを見ちゃうと、平日に行こうかという気にならないでしょ?逆も同じですよね。」

 

「実は、先程言った混在性が、最近の新たな開発のキーワードにもなっています。六本木ヒルズしかり、六本木ミッドタウンしかり、丸の内の再開発も全てそうで、今や、単一の機能ではもうダメなんですね。丸の内でも、土日人が歩いていないところでは、仕事だってみんなやりたくないんです。土日は土日の賑わいがあり、平日は平日の賑わいがなければ、町はおもしろくないっていうことを、私たちが、30年ちょっと前から云い始めて、ようやく、小布施はそうだなって、再認識されるようになりました。極論すれば、小布施は時代を先取りしていて、私たちが、小布施に住んでいること自体もおもしろさの一つなんですよね。」

 

−− その通りですね。ところで、町はすんなり納得したのですか?

 

「いいえ、当初から、町も自分たちがイニシアチブを取れないもんだから、カチンと来た。そうくるのはわかっていましたけど、プライドを傷つけられたんですね。町は、行政主導で周辺の再開発みたいなこともやろうとしていました。でも、議会で議員が一人でも反対したら立ち往生します。結局、町がいいことをやろうと思っても、妥協に妥協を重ねないとできないのが今の日本でしょ?この事業のコーディネーターは建築家で、町は、コーディネーターではなく、一地権者として加わっています、といえば、何でもできちゃう。議員が言いそうなことは全部町が主張すればいい、地権者は5者ですから、1:4で押し切られました、と被害者を装えば何でもできちゃいますよ、と説得しました。」

「半年ぐらい説得を続けている内に、その町長も自分の任期満了が迫ってきて、再選を支持される空気は全くなかったから、自分の事業として実施するために、同意しちゃった。今の世の中、正論めかしたバカバカしい意見が出て来て、それがなんとなく時代の風潮みたいになるので、逆手をとる方法って本当に大事なんですよ。」

 

「それから、まずは、建築家を業者扱いする態度から改めなさい、とお説教しました。役場はコーディネーターになったら偉いような気になっているけど、世の中では、イニシアチブなんてものは、権限の有る無しではなくて、勉強をした方が取れるんだということですよ。」

 

「アンタ、1億円払っても1億円の情報しか入らないんだよ。1万都市の小布施が1億円で100万都市が100億円払えば、100億円の情報に1億円の情報は敵わないし、買える情報というのはそれだけの価値しかないけれど、やっぱり最後はバーターなんだよ。誠心誠意、礼を尽くして、その先生が小布施のためならひと肌脱いでやろうということになれば、10億円の情報をくれるかもしれないよ。でも、受け皿がしっかりしてなければただのゴミだし、逆に受け皿がしっかりしてれば、1億の情報を10億に変えられるかも知れないでしょ?情報ってそういうものだと何回言っても、結局、わかってもらえなかったですね。」

 

昭和62(1987)年に小布施堂本店が完成して、事業は終了し自分たちは実を取ればいいので、手柄は、コーディネート役をさせなかった町に花を持たせたのですが、間違ったコンセプトをしゃべられるのは困りましたね、随分、違った形で伝わっているハズです。」 

−− 確かに、仕掛人の話の方が、はるかにリアリティがあります。『小布施町町並み修景事業』終了後の取組みは?

 

「1986年、ベルギーのゲントという町で、世界初の民家参加型の現代アートイベントが開催されたとのニュースを聞いて、それはおもしろい、是非、小布施でも、と民家参加型のアートイベントを開催しようと企画したのが『小布施系』でした。ただし、現代彫刻作品の展示は小布施堂周辺のみに限定し、小布施町内全域には「我が家も美術館」という併催イベントの形で民家参加型を実現しました。その他にも、本宅の2階でコンサートを開いたりと、小さなイベントをちょこちょこ開いていました。

 

−− セーラさんが小布施にやってきたのは?

「1995年ですね。長野オリンピックが1998年だったのですが、長野五輪終了時に地元に残された通訳ボランティアなどの人的インフラを活用すれば、人口1万2千人の小布施でも国際イベントの開催は可能なはず、と言い始めて、1996年か7年には、北斎研究の大ボスだったベニス大学の教授と話をつけて、『第3回国際北斎会議』開催できるメドがついて、当時の町長とイタリアに行って調印式をやったのですが、その時に、実行力があるというか、当時、そういう言葉がなかったですけど、突破力のようなものを感じました。」

「オリンピックが終わるまでという話だったのが、『小布施ッション』だとか、『小布施見にマラソン』だとか、次々に新しい企画を出してくるもんですから、小布施にとっても、そういうイベント性の高いものも必要なんだろうな、ブレークスルーに必要な人材かも知れない、という気がしましたね。」

 

−− 「小布施ッション」一つとっても、12年で144回、全部、持ち出しだったと伺っていますが、どれだけ太っ腹なのか想像もつきません。

 

「そうそう、企業としての費用対効果は小さいのはわかっていましたが、地方の企業というのは、ある部分、費用対効果よりも、むしろ、そういうことをやるために通常の営業活動をしているところもあるのかな、という感じもしないでもなかったんですよ。費用対効果でいわれると、持ち出しなんですが、TVコマーシャルなんて、すぐに何千万円掛かっちゃいますよね。『小布施ッション』は、毎月やっていましたが、年間2000万円は掛からなかったと思うんですよ。企業に残る財産としては、TVコマーシャルより費用対効果があると思いましたが、次から、次からなもんですから、広告宣伝費としては、だんだん、大きくなり過ぎてしまいましたけどね、ハハハハ。」

 

「でも、『小布施ッション』だけなら、地方の企業のTVコマーシャル代と思えば、そんなに高くないですよ。地方でTVコマーシャルを打ったからっといって、何か地域力がつくのかといえば、地方局は中央の受け売りの垂れ流しでしょ?そこには何も生まれませんよ。実は、地域経済の観点から言うと、何が生まれるか?なんです。だから、小布施堂という企業からすれば、持ち出しかもしれないけれども、企業と地域に何らかの財産が残るであろう、また、残せるようなイベントでないと意味がありません。」

 

「それにね、一応、私が、スポンサーだから、率先して、というか、特権的にやったのが、講師の先生のお迎えです。講演で聞ける情報はどこの講演でも聞ける情報ですが、移動中の車の中で聞くクローズドの情報は価値が違います。ご存知の通り、あれだけの講師の先生方がいらっしゃったのだから、お金には換算できないような情報をたくさん頂いたので、全部が持ち出しでは決してありませんよ、ハハハハ。」

 

−− なるほど、お見それしました。店舗のリニューアルを始められたのは?

 

「1998年、長野オリンピックが終了した年の秋にオープンした和食レストランの『蔵部』からですね。それ以前から、いち早く、讃岐うどんを出していて、そこそこの人気だったのですが、お酒も売れるように、小布施堂本店のように社員出身の料理人を置くとコストと時間が掛かるので、冷凍やレトルトの料理も提供しようという計画でした。ところが、セーラが、『ロマネコンティが、ドライブインを始めたら、ロマネコンティじゃなくなるよ。社長の売りたいのは、大衆酒なの?それとも、プレミアム酒なの?』という名台詞を吐いて、猛反対したんですよ、ハハハハ。要するに、WhatHowのせめぎ合いなんですね。彼女は、何のためにやるの?で、私は、どのようにやるのか?ですよ。WhatHowの違いはおもしろいですよ。酒屋の1回の投資額は、せいぜい2千万円程度だったから、私には、そんな算盤に合わない発想はできないというところもありましたね、ハハハハ。」

 

「セーラが推薦したのは、東京のパークハイアットを手掛けたジョン・モーフォードという香港を拠点にしている建築家でした。セーラがその建築家とコンタクトをとって、興味を持ったので会いたいと言うので、私は、彼がどんな人なのかよく知らなかったのですが、小布施堂周辺や小布施の風景をあちこちビデオに撮って、香港に行ったんですよ。そうしたら、今度は、彼が小布施にやって来て、小布施堂で一緒に食事をしていた時に、『料理も建物も気に入ったから、やらせて欲しい』と言ってくれたのですが、それからが大変でしたね。」

 

「『蔵部』が完成すると、次は、『枡一客殿』を建てることになりました。昔は、宿場町は別として、日本の田舎には、旅館のような宿泊施設はなくて、かつて、遠方から小布施に来られた客人は、有力者の自宅でお世話をしていました。自宅に招き、夜にまたがる交流には、情報交換等々、大きな意味がありました。」


「『桝一客殿』の建設が始まってから、ジョン・モーフォードが、ホテル宿泊客の朝食場所として適当でないと主張するものだから、洋食レストランの『傘風楼』も改装したのですが、今、考えると、私がジョン・モーフォードと直接、話をしておけばよかったなという気もしますね。ジョン・モーフォードと彼女の主張が一致していたら別に何の問題もなかったのですが、どうも、ジョン・モーフォードの方にも不満があったようですし、私の方も、何かモヤモヤしたものが残ったもんですから。」

 

「というのも、地元で一番大きな建設会社に施工してもらって、意志の疎通が欠けたのか、ジョン・モーフォードの言うことに無理があったのか、建設会社の技術的な問題だったのか、今となってはわかりませんが、2度も、これまでの工事代金は要らないから降ろさせてくれって言われてね。それに、ジョン・モーフォードは、意欲が下がったというより、セーラ不信に陥ってしまったんですね。もう、引き返せないところに来ていたので、とにかく、完成させなければならないというのが、私の一大ミッションでした。」

 

「ジョン・モーフォードは既製品を使うのを嫌がる人で、全部、オリジナルでデザインしたいと言うのはわかるんですよ。でもね、本当に彼女が通訳した通り、ここは何が何でもというところだったのか、あるいは、モノによっては、ここは仕方がないという妥協の余地があったのか、今になってみれば、わからないところがあるもんですからね。やっぱり、もう一人、通訳を置くべきだったなぁ、と思いますよ。ちょっとした反省点ですね。」

 

「彼女の着眼点は抜群だったし、とっかかりはいいんですよ。そこから先が・・・、例えば、建築だと、修正可能なタイミングってある訳ですよ。図面の段階とかね、そこでどういう訳か見過ごして、切羽詰まった段階になって、無理してでも変更しろ、というのが多いように感じました。そうすると、言われた方は、だんだん、モチベーションが下がってくるんですよね。今はよくても、後でひっくり返されるというイメージになっちゃう。彼女が、建築のことでも事を成すのなら、図面を読めるようになるとか、もっと建築の事を勉強して、図面の段階でいろいろ言えれば、もう2ランクぐらい上に上がれたでしょうね。」

 

−− セーラさんは小布施にとってどのような存在だったのでしょう?

 

「突破力と同時に、発信力がありましたから、歴史的に見れば、光の部分が大きいと思いますが、同時代に同じ事に携わった人には、何かしらの傷として残っているところもありますから、影の部分は拭いきれないと思います。でも、彼女と一緒に関わった人たちの存在が無くなって、純粋に歴史として振り返った時には、光の部分だけが輝いて見えてくるのではないでしょうか?」

 

「高井鴻山という人は、そんなにマネージメント能力があった人ではなかったんですよ。でも、一方で、北斎という、あんな難しい人が、わざわざ訪ねて来るぐらいの魅力もあったはずです。で、何をやったかというと、お寺の天井絵や祭屋台をつくって、当時の人にしてみれば、何の道楽だ?って感じですけど、今になってみれば、それこそ、それ自体が、小布施のアイディンティティに充分なっている訳でしょ?だから、そんなようなところがあるような気がするんですよ。」

 

「天井絵や祭屋台と比べると、『小布施ッション』や『見にマラソン』というイベントだとか、あるいは、『蔵部』や『客殿』というハードだとかいうものは、性格も何も全く違うんですけれども、でもね、それぐらいのデタラメさとハズミがなかったらね、もっと月並みにこの町はこんなもんだぐらいのことしかしなかったら、100万都市は100万都市、1万は1万、そういう序列ができてしまうだけじゃないの、っていう気は、今でもしているんですよ。」

 

「そもそも、宮本忠長さんが設計、コーディネートした「小布施町町並み修景事業」以来の小布施があったから、京都や奈良、倉敷とはちょっと違う、アメリカで思い描いた日本のイメージそのものだと言って、セーラ・カミングスがここでワラジを脱いだ訳です。そのセーラがいなかったら、金石君や西山君はここにいないだろうし、私は、山田さんともセーラを通じて知り合った訳だから、平野さんとも出会ってなかったかも知れないということになります。」

 

「結局、これが成功、これが失敗ってないんですよ。みんな、こう、重層的に重なっているんじゃないですかね。だから、成功と失敗っていうのは、条件設定によって、変わるし、事象は一つであっても、どの価値観で見るかで成功が失敗かが決まるという、ただ、それだけのことだと思いますね。」


「我が社には、元々、文化事業部という部門があり、また、セーラ・マリ・カミングスは、SMCという彼女個人の会社を持っていて、それをある時期に、株式会社文化事業部と法人名を変更したのですが、彼女は、我社から独立したので、株式会社文化事業部は100%彼女の会社になりました。」

 

−− 株式会社修景事業についてお聞かせ下さい

 

「株式会社修景事業は、蔵部や桝一客殿を施工した建設会社との共同出資で設立しました。客殿の建設が始まる時期で、どこかで施工管理をする必要がありましたし、信州大建築学部の院生を3人も採用したこともあって、『修景』事業に関連して、彼らのやりたい建築をさせてやりたいという気持ちもありました。施工管理に関しては、小布施堂の視点で、動いてくれることを期待していましたが、施工した建設会社からの出向社員と同じ視点でしたね。まだ若かったので仕方がなかったのかもしれません。客殿完成後は、民家や工場の現場も請負っていたのですが、実際に施工しているのを見ていて、あれで食っていくってことは、納入業者を叩かないと無理だということがよくわかりました。はい、このサッシいくら、って言い値で仕入れていたら、人件費は出ないですね。民間で職人の仕事を守るのは難しいということです。」

 

「一旦、修景事業というものから離れてみて、惜しいなと思うのは、小布施だけでも茅葺き屋根の家が100棟以上あって、全部にトタンが巻いてあるのですが、トタンを外すだけで風景が変わるのは間違いないんですよ。茅葺きは、職人が2〜3人いて、必要な時に、素人を動員できれば葺けてしまうと特性があります。それに、従来のように、田舎でも焚き火ができなくなったので、火の粉が飛んで来て火事になる危険性も少なくなったので、トタンを巻いた屋根から茅葺き屋根に復活する客観条件は整いつつあるなという気がします。」

 

「これからの行政は、ネクタイ族を減らして、絶滅寸前の伝統技術を持った職人を技能職人として、終身雇用でなくとも、10年単位の契約で雇用した方がいいですよ。行政で茅葺き屋根を修復しようとすると、予算を組まなきゃいけない、予算を組むと、500万円以上は議会の承認を得なくちゃいけない、って面倒なことになってくる訳です。技能職人がいれば、原材料費だけで済みますし、技術も職人も残せます。」

 

−− 桝一酒造場の今後は?

 

「今でも収支トントンぐらいですが、せっかくですから、桝一からでも、蔵部からでもいいんですが、粕漬けなんかの加工品をつくって、売上増に結びつけたいなと思っています。」


「2000年に木桶仕込みを復活させましたが、当時も、今も、全量を木桶仕込みにする考えは全くありません。ウチも業界も、木桶仕込みを『0』にしてしまったというのはマズいという意識は、前々からあって、蔵人も説得したし、職人も確保できたので、伝統の技を次世代に引き継ぐためにも続けていきますよ。」

 

「江戸時代から酒造好適米という日本酒造りに適した米の品種改良が続けられています。ところが、今では、世間で有名なお酒でも、麹には酒造好適米を使っているけれど、かけ米には普通のうるち米を使っているのも多いですね。ウチは、せっかく、そういう日本酒好適米があるのだからということで、高級酒も何も、全ての酒は、全量、日本酒好適米だけで造っています。それも、白金は長野産の金紋錦、スクエアワンは、長野産の美山錦、鴻山は兵庫県産の山田錦と云う具合に、麹は同じなんですが、酒造米を銘柄毎に変えて醸造しています。」

 

「これからも、原材料は贅沢に使っていくつもりです。レストランでお出ししているお米は契約した農家に有機無農薬で作ってもらっているので、酒造米も無農薬有機米を使う可能性はありますが、ウチで仕込む量を銘柄毎に確保できるかってところですね。」

 

−− 小布施堂の今後は?


「私があと何年先頭に立ってやれるかはわかりませんが、何年か前に、金石君が、『社長、小布施堂は原料を売っている会社ですね。』って、迷言を吐いたことがあるんですよ。正に、『栗ようかん』や『栗かのこ』とかは、栗菓子の原料でね、むしろ、それを使った菓子を作らなければいけないということで、去年ぐらいから、生菓子に力を入れてつくり始めています。」

 

「小布施堂本店をつくった時から、そういう時代になるのだろうということは見越して、伝統的な日持ちのする缶に入ったものから、栗餡を使った菓子にモードチェンジをして、文字通りの栗菓子屋に脱皮する構想自体は考えていたのですが、売場も、従来のように、土産物屋とか、デパートの贈答用売場とかというんじゃなくて、生菓子売場を意識して、栗餡を使った菓子を作っていくっていうことですね。」

 

−− 秋になったら、ここへ来て、早朝から並んででも食べたいという「朱雀」がありますよね?

 

「いやいや、あれは、栗を漉した素材そのものを工場で食べたらおいしかったので、栗餡に乗せてお菓子にしたのですが、原料を仕込む時期にしかつくれませんし、ウチのように工場が隣接していないと提供できない、季節限定のお祭り商品みたいなものです。今や、トータルで売上なんぼという時代ではなくて、店頭に並んでいる時に、あっ、これっ、という指名が来ない菓子はやっぱり、弱いですから、通年、指名で売れる商品が大事なんです。」

 

−− これからの小布施についてお聞かせ下さい

 

「休眠状態だった観光協会を復活したのが、今の文化観光協会です。文化とか観光とかはやめろ、コンベンションビューローにして、世の中、そんな学会あるの?という学会だらけだから、会員1000人以下の小さな学会のコンベンションの誘致をやりなさい、そのアテンドをやること程、勉強になることはない、って言ってるんですよ。1〜200人程度の小さなコンベンションを大都市でやると、肩身が狭くて寂しい思いをしているハズだけど、小布施でやれば、それは、ビッグ・コンベンションになります。出席される先生方を送り迎えすれば、いい情報も手に入るってものですよ。」

 

「時間が無い、暇がないから発想できないって云うけど、時間があるから、いい発想ができるかというと、そんな訳がない。いい発想をするには、別の組み立てが必要で、そういう意味でも、コンベンションを誘致すれば、送り迎えする中で、学会の先生方の慧眼に直接触れることで、発想力も鍛えられるんですよ。」

 

「今や、ネットで何でも情報が手に入る時代なんて言ってますけどね、本当の情報は人が持っているんですよ。まず、いい情報を持った人を『集める』ためには、コンベンションが一番手っ取り早いんですね。もちろん、いい情報に敏感ないいホストが必要ですけどね。一旦、いい情報を持った人が『集まる』ようになると、情報が一人歩きを始めて、今度は、いい情報を求めて、人が『集まる』ようになります。いい方に廻り始める訳です。更に、いい情報を求めて、色々な人が集まってくるんですね。実は、観光っていうのも情報なんですよ。」

 

「『小布施ッション』は、12年144回続けて、それなりの役目は果たしたと思うんですね。もう、その流れは止まらないように思います。これからの小布施を担う30代の人たちに伝えていきたいのは、観光客を増やすとかという発想をしないで、如何におもしろい人が集まってくるかに尽きるぞ、それが勉強だぞ、ということ、異分野の人が訪ねてくると、楽しいし、勉強にもなるし、次の力にもなるという、さっき言ったサイクルを知って欲しいということですね。『小布施ッション』というのは、そういう手段の一つだった訳ですから。」

 

「人材というのは、ある面では、その地位に就かないと、才能が開かないという部分もあるかもしれないですし、立場が人をつくることもあると思います。潜在能力がある人間がいても、普通、それは外から見えないでしょう?だから、どんな役目でも、役割でも、率先して引き受けた方がいい。そこで出会った人から得るものは大きいですよ。40代になると、いい意味でも、悪い意味でも保守的になるので、30代の人たちががんばらなければいけない。」


 小布施の旦那文化を支えてこられた血筋なのか、何とも器がデカい。そして、ものごとをよくご覧になって、見通しておられる。『小布施町町並み修景事業』もネット上には出てこないウラの話を伺って、その真のコンセプトが理解できた。まさしく、「本当に価値のある情報は人が持っている」のである。値段の付けられない情報をたくさん頂けた。感謝である。

 

 市村社長や市村町長が、30歳そこそこで『小布施町町並み修景事業』に取り組まれた発想力と実行力には、驚かされたが、今回、今の小布施の30代である小林英樹さんや林英寿さんも取材させて頂いて、『小布施町町並み修景事業』以来の精神を受け継ぎ、両世代間の信頼関係も申し分なく、自分たちのおもしろいことを発想して、実行しておられる。

 

COREZO(コレゾ)賞の趣旨と概要を簡単に説明しただけで、表彰式を小布施でやりましょうと、市村社長や市村町長のご了解を取り付けて下さった金石さん、西山さんにも、市村社長の想いはしっかり伝わっているようだ。

 

 これからも小布施は、ますますおもしろいことになりそうだ。

 

COREZO(コレゾ) 町並み修景事業を通じて、小布施固有の歴史、文化を背景に、楽しい日常生活を維持し、人と情報が集まる町づくり」である。


 

 市村 次夫(いちむら つぎお)さんに関するお問い合わせは、

 メールで、info@corezo.org まで

 

本サイトに掲載している以外の受賞者の連絡先、住所他、個人情報や個人的なお問い合わせには、一切、返答致しません。


 

COREZO(コレゾ)賞 事務局 (2014.05.最終取材、2014.08.31.編集更新 文責 平野 龍平)

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