岡田サヨ子さん

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COREZO(コレゾ)

どえらい丈夫な和傘を竹を切り出して骨から手仕事でつくる、元わら草履職人と元大手自動車メーカー社員の母娘職人」


岡田 サヨ子(おかだ さよこ)さん(傘張り職人)

岡田 佳子(おかだ よしこ)さん(傘骨職人)

 

愛知県豊田市足助町出身、在住

 

「足助屋敷」和傘職人

 

ジャンル

伝統工芸

手仕事

和傘職人


 

経歴・実績

1980年 足助屋敷 (あすけやしき) 開設

1993年 足助屋敷でわら草履づくりの実演 開始

1994年 足助屋敷で和傘づくりを3週間見る

199?年 足助屋敷で和傘づくりの実演 開始

 

受賞者のご紹介

岡田 サヨ子(おかだ さよこ)さんと岡田 佳子(おかだ よしこ)さん母娘は、愛知県豊田市足助町にある「足助屋敷」の和傘職人さん。2013年9月、足助地域の手仕事を職人さんが実演している施設があると、株式会社黒怒の佐野会長にお連れ頂いた。

 

 まず最初に、館長の松井 栄子(まつい えいこ)さんにお話を伺った。

 

1980年に開設された「足助屋敷 (あすけやしき)」は、紅葉の名所、香嵐渓の散策道を上流に上った奥にある。観光施設としての正式名称は、「三州足助屋敷」。民具を実際に使って、昔ながらの地域の手仕事、中山間部の農家の暮らし(明治~昭和30年頃までを想定)や年中行事を再現し、技術の伝承を行なう、生きた民俗資料館を目指して開設された。施設内の茅葺屋根の母屋、土蔵など、建物も足助地域伝統の技術を駆使して建てたそうだ。

 

 足助町は面積の86%を山林が占め、夏期は農業、冬期は林業という三河山間地の伝統的な生活が営まれてきたが、昭和30(1955)年代、17,000人いた人口は、高度成長期を迎えると、トヨタ自動車他の労働市場となり、働き手が都市部に流出し、過疎地域となった。

 

 昭和40(1965)年代後半から、トヨタの城下町に甘んじることなく、「足助町に住む」ことにプライドを持って暮らしていくための模索が始まった。伝統の土蔵や民家は惜しげもなく壊され、数多くの民具も捨てられてしまう状況に、このままだと孫子に父祖の暮らしや風習を伝えられなくなると、危機感を抱いた行政と住民が、「民具を展示するだけではなく、物は使われてこそ生き、物をつくる過程を伝えることが大切だ」と「足利屋敷」の構想を練っていったそうだ。

 

 苦労したのは、足助町にあった10種以上の手仕事職人の確保で、既に引退していたり、職を失って他の仕事に就いていた人々を一人一人熱心に説得して廻ったそうだ。施設の建物も全て地元の材を使い、地元の職人の手でつくり、途絶えかけていた建築の伝統技術を甦らせ、若い職人への伝承にも役立ったという。

 

 2004年には、足助町関連の、足助町緑の村協会(三州足助屋敷)、百年草協会(百年草・温浴宿泊施設)、足助町観光協会受託業務、などを合併し、()三州足助公社が設立され、松井館長の元の職場は、観光協会だったそうだ。

 

 しかし、平成17(2005)年、足助町は豊田市と合併し、合併時の足助町の人口は、1万1千人だったのが、今では、1万人弱に減り、過疎化がさらに進んだ。「足利屋敷」もピーク時には来場者が17万人あったが、最近では、7万人にまで落ち込んでいる。

 

 来場者の減少の原因について尋ねると、レジャーが多様化して香嵐渓への観光客が減少したこと、団体客がほとんど来なくなったことに加え、儲けが出なくても地域貢献しているという意識が職員のどこかにあるのではないか、とのことだった。

 

 職人さんが実演しているのは、わら細工、機織り、桶屋、傘屋、紙すき、炭焼き、鍛冶屋、竹かご屋、木地屋、紺屋さんだそうだが、全部を見て廻る時間が無かったので、館長のオススメを伺うと、傘屋さんだとおっしゃる。和傘の仕事現場は見たことがなかったので、それならばと、真っ先に行ってみた。

 

 ひとつの茅葺き家屋にいくつかの職人さんの実演場所があり、ひとりで黙々と傘貼り作業をしておられた岡田 サヨ子(おかだ さよこ)さんに声をかけると、とてもにこやかに応対して下さった。

 

−− 足助は和傘づくりが盛んだったのですか?

 

 「昔、足助は宿場町だったので、傘屋も何軒かあって、番傘づくりも盛んだったようです。私も傘屋さんがあったのは覚えています。」

 

−− 代々、傘屋さんをしておられるのでは?

 

 「いいえ、旧旭町の出身ですが、農家から足助の時計屋に嫁ぎました。」

 

−− 時計屋さんから傘屋さんに転職されたのですか?

 

 「いいえ、いろいろありましてね、主人を早くに亡くしたので、お好み焼き屋をして、4人の娘を育てました。その他にも幼稚園の用務員や内職でTシャツの縫製なんかもしていました。」

 

 「実家が山間地の農家でしたから、子供の頃からわら草履づくりをしていました。それで、1993年から1年間、こちらの足助屋敷でわら草履づくりの実演をしていました。」

 

−− で、わら草履屋さんから傘屋さんに転職されたのですか?

 

 「まぁ、そうですね。足助屋敷でつくられた和傘が天日で干されているところを見たのですが、それがあまりに素晴らしかったので、私も作ってみたいと思いました。」

 

−− で、足助屋敷で実演されていた傘屋さんに弟子入りされたのですか?

 

 「はい、弟子入りといっても、3週間の間、1日中、師匠の傘職人さんの横に座って、作るのを見ていました。その後、9ヵ月程、作り方を教えて頂いたのですが、教えてもらっている途中で、その方が亡くなってしまったので、見させてもらっていただけの3週間がとても役に立っています。」

 

−− どのように作るのですか?

 

 「竹を割って骨をつくり、それらを組み立てて、和紙を張ったあとに、防水にエゴマの実から絞った荏油(えのあぶら)を塗って出来上がりです。エゴマといってもゴマの仲間ではなくて、シソ科の植物だそうです。」

 

−− えらい簡単にゆーてくれはりますやん?1日に何本位つくれるんですか?

 

 「ハハハハ、今では、骨からつくっているところはほとんどないと思いますよ。和傘は大量生産していた時代があって、分業が進んでいて、骨だけ作る、傘貼りだけするという何人もの専業の職人さんが分業でつくっていました。ここでは、20以上ある工程を娘と2人でつくっているので、1日に1本もつくれません。」

 

−− では、他の傘屋さんの骨はどうしているのですか?

 

 「和傘づくりは、岐阜が盛んで、有名なのですが、竹の骨を機械で作っているところがあります。今では、手作業で骨をつくる職人さんはほとんどいないと思います。娘は骨からつくりたいと、岐阜の職人さんに習いました。なので、私には、骨はつくれません。」

 

−− 今日、お嬢さんはいらっしゃらないのですか?また、いつから傘屋さんを?

 

 「今日は休ませて頂いています。娘はトヨタ自動車の事務員をしていたのですが、自分の性格に合わない、と1年程で辞めて、2年後にこの仕事を始めました。」

 

−− 今度、お嬢さんにも是非お目に掛かって、お話を伺いたいですね。

 

 「ハハハハ、休みでない日なら、いつでも、どうぞ。」

 

 ここで、チョイと和傘のおベンキョー、

 

 古代中国で、貴人に差しかける天蓋として、開閉できない傘が発明され、朝鮮半島の百済を経て、日本には古墳時代に伝来したとされる。紙漉きや竹細工の技術の進歩により、安土桃山時代に現在のような構造の和傘になったが、使用できたのは特権階級に限られ、一般庶民に普及したのは江戸時代半ばからで、主に京都や大坂で作られていたのが、やがて岐阜、江戸でも生産が始まり、全国各地へ広がっていった。

 

 岐阜県北部の飛騨地方では、中世からエゴマが栽培され、その種から絞る荏油は灯明用のほか、雨具の材料にも使われてきた。美濃(岐阜)の戦国大名、斉藤道三は、製油発祥の地として知られる京都・大山崎の荏油商人だったそうだ。


 岐阜で和傘づくりが盛んになったのは、江戸時代中期、岐阜市南部の加納藩が財政難克服のため、藩士に傘づくりを奨励したことから。真竹、美濃紙、荏油など地元の産物を用いて、地場産業として発展し、昭和15(1940)年の生産量は、約900万本で、全国の生産量の25%を占めた。

 戦後、焦土と化した日本では、物資が不足して、鉄も布もなく、洋傘は作れなかったが、岐阜では、地元の材料を利用できたので、和傘の生産を伸ばし、昭和24〜5(1949〜50)年頃には、年間1500万本以上と、戦前をしのぐ生産量となった。しかし、昭和30(1955)年代に高度成長期を迎えると、日本人の生活が西洋化して、洋傘の生産量が急増し、和傘は日常生活から姿を消していった。

 和傘は雨具としての役割をほぼ終え、和傘職人も高齢化とともに消えていく運命にあるが、全国各地の祭や伝統行事、歌舞伎などの芸能、野点の際等に使う和傘のニーズがあり、少数だが、岐阜、京都、金沢、松山等に和傘製造店が残っているという。

 

 昭和30(1955)年代まで、和傘が日常的に使われていたというのには驚いたが、そういえば、子供の頃、番傘を目にしたのをかすかに覚えている。

 

 話は戻って、

 

−− 傘の骨を作るのは難しいのですか?

 

 「んー、結構、大変ですよ。」

 

竹の切り旬といわれている10〜12月に山に入って、竹を選んで、切り出しておく。

長い親骨(大骨)と短い子骨(小骨)の長さに切る。

丸のまま水に1ヶ月漬けて、水分を吸わせて、柔らかくする。

傘の紙を貼る部分になる長い親骨(大骨)を手割りして削り出して作る。

親骨(大骨)を支え、開閉部分の短い子骨(小骨)も手割りして削り出して作る。

柄のロクロに親骨(大骨)と子骨(小骨)を糸でつなぐ(つなぎ)。

軒(傘の外周)部分の糸を挟み込むようにテープ状の和紙を貼る(軒紙貼り)。

和紙を扇状に裁って、頭ロクロの手前まで貼る(平紙貼り)。

頭ロクロと平紙の間を和紙で貼り、ロクロとの間を補強して貼る(天井貼り)。

貼り終えた傘をたたみ、形を整えて輪をかけておく(たたみづけ)

傘の表面に荏油を塗り、一晩置いてから天日で干す(油引き)。

頭部分にズコウ紙を付け、天金と皮を打ち止める(仕上げ)。

 

 かいつまむと、以上のような工程。そりゃ大変だ。

 

−− 一番難しいのは?

 

 「骨以外では、頭の部分(骨を止める部分)ですね。頭包みというのですが、頭ロクロという頭の中心部分で骨をまとめて止めている一番肝心な部品を包んでいくように和紙を貼ります。この時、ロクロに糊が着いてしますと傘が開かなくなるので気を使います。最後にカッパとも呼ばれているカバーになるズコウ紙を付けて、何重にも防水をします。」

 

−− 荏油を使うのは?

 

 「高価なので、代用の亜麻仁油や柿渋を使う傘屋さんもあるようですが、防水性、耐久性は荏油が一番です。」

 

−− 可動部分は全て糸でつないでいるのですか?

 

 「そうです。木綿糸を使います。」

 

−− 傘の紙はどんな糊で貼るのですか?何枚か貼り合わせているのですか?

 

 「ワラビ粉やタピオカの粉からつくった糊です。番傘はこの足助屋敷で漉いたコウゾ100%の和紙を10枚程貼り合わせます。他の和傘の傘紙は業者さんから購入します。」

 


−− 見事ですね、どこで貼り合わせているかわかりませんね。しかし、竹を糸でつないで、和紙をデンプン糊で貼っただけで、耐久性は大丈夫なのですか?

 

 「ハハハハ、どえらい丈夫です。ウチで買って下さった奈良の東大寺の僧侶の皆さんから、7〜8年に一度、傘紙の貼り替えを頼まれますが、本体はまだまだ使えます。」

 

−− へぇー、それは驚きですね。取扱いで注意することは?

 

 「閉じたら、洋傘と反対で、頭の方を持って下さい。そうすれば、雨水も中に入りません。雨で濡れたら、水切りをして、全開、または半開きの状態で陰干しして、乾いたら、閉じて、風通しの良いところに輪で止めない状態で、頭から吊るして置いて下さい。」

 

 最近では、祭り用、伝統行事用、曲芸用の傘の依頼も多いという。また、持ち運びに便利な小振りの日傘が女性の間で人気だそうだ。


 一般的な番傘の値段を聞いてこれまた驚いた。これだけの手間が掛かった和傘が手間賃をカンペキに無視した、民間の商売では考えられない、とんでもない値段だった。順番待ちとのことだったが、ソッコー注文した。手元に届いたら、その和傘を見る度に、サヨ子おかーさんのご尊顔と「どえらい丈夫」という言葉を思い出すことだろう。

 

 この岡田母娘のつくる和傘の素晴らしさが世間の訳のわからん人たちに知れ渡らないよう、足助屋敷の運営会社が手間賃と市場価格を全く無視した値段であることに気づかないよう、心から祈るばかりだ。

 

COREZO(コレゾ)賞・財団の趣旨をご説明し、母娘での受賞をお願いしたところ、

 

 「何だかわかりませんが、いいようにして下さい。」とサヨ子おかーさん。他を巡る時間はすっかり無くなってしまったが、サヨ子おかーさんの和傘のお話を伺えただけでも大収穫で、なんだかちょっぴり幸せな気分になった。サヨ子おかーさんの作業場の傍ではご主人の時計屋さんにあったという柱時計がゆっくりと時を刻んでいた。

 

COREZO(コレゾ)「どえらい丈夫な和傘を竹を切り出して骨からつくる、元わら草履職人と元大手自動車メーカー社員の母娘職人である。

 

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メールで、info@corezo.org まで

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COREZO (コレゾ)賞 事務局 (文責 平野龍平 最終取材2013.09. 編集更新2013.11.30.)

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