村上真平さん

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 COREZO(コレゾ)「日本の財、震災を乗り越え、自然農園を再開し、未来の子供たちに、自然を収奪せず、人を搾取しない生き方を探求する、不撓不屈の農業家」賞

 

村上 真平 (むらかみ しんぺい)さん

 

自然農業 自然農園「なな色の空」代表

 

福島県田村市出身、三重県津市在住

 

経歴・実績

1959年 福島県田村市生まれ

1977年 愛農学園農業高校卒業

1982年 インドに渡り、ガンジー・アシュラムに1年間滞在

1985年 バングラデシュで6年間

1996年 タイで5年間、民間海外協力団体(NGO)を通じて、

      自然農業の指導・普及と持続可能な農村開発の活動

2002年 帰国し、福島県飯館村でエコビレッジ・コミュニティづくりを始める

2011年 3月11日深夜、福島第一原発のメルトダウンを知り、飯舘村から避難

2013年 三重県津市で農業を再開

 

受賞者のご紹介

2013年6月、高知県本山町で自然農、棚田の再生に取組んでおられる北村太助(きたむらたいすけ)さんを訪ねた折に、

http://www.corezo.org/home/2012/kitamurataisuke

http://www1.ocn.ne.jp/~oscar/

 

「アンタに是非会ってもらいたい人がいる。」と、あるTV番組の録画を見せて頂き、この方には、是非、お目に掛からんとアカンと勝手に思い、ネットで連絡先を調べて、メールを差し上げたところ、しばらくして返事を頂いた。

 

 「はじめまして、村上真平です。メール頂いておりましたのに、返事が遅くなって申し訳ありません。この春から、耕作放棄地を1.6haほど再生して、農業を再開するために、大忙しの状況でしたが、この頃少し、時間に余裕が取れるようになってきました。訪問の件、了解いたしました。日程など、詳細をお知らせください。村上真平 」

 

 訪問日時が決まり、2013年7月、名阪国道の針インターから目的地に向かった。伊勢街道を通行したのは初めてだったが、なかなか快適な道路で、ほぼ約束の時間に到着した。電話を差し上げると、「農園の方にご案内しますので、私の車の後に付いて来て下さい。」とのことで、村上さんの運転する軽トラの後に従った。

 

 山道を上がっていくと、農地が広がっていた。さらに上って、食害防止のフェンスが張り巡らされた農園に到着。農作業小屋とおっしゃっていたが、真新しいとても立派な建物のテラスで、ご一緒に来られたお嬢さんの日那(ひな)ちゃんにもご挨拶をした。

 

 「ちょっと待っていて下さいね、娘のプールの用意をしますので。」と、子供用の風呂桶?を洗い、水を貯められて、「今朝、採りたてのトマトです。どうぞ、好きなだけ召し上がって下さい。」と勧めて下さった。とても甘くてみずみずしいトマトをご馳走になった。

 

−− 素晴らしい景色ですね?

 

 「背後の切り立った崖のような山は、倶留尊山(くろそやま)で、柱状摂理も見えるでしょう?この辺りではあまり見かけない景観だと思います。僕たちが住んでいる集落が標高4〜500m、ここは6〜700mなので、涼しいですよ。今日も28℃ぐらいでしょう。夏場でも30℃を超えることはめったにありません。」

 

 「この辺りは、池の平高原と呼ばれていて、戦後、開拓されました。この周辺だけでも農地が40haぐらいあります。以前は、大根、キャベツ、ほうれん草等の高原野菜づくりが盛んな地域でしたが、今は耕作放棄地だらけです。」

 

 「ここも20年以上放置されていて、雑木や草が生い茂っていたので、昨年9月頃から開墾を始めました。あのTV番組をご覧頂いたのですね?あれは去年の12月頃まで取材が入っていたのですが、その頃には開墾も大体終えて、少しは農地らしくなっていたのではないかと思います。放送されたのは年明け2月頃でした。」

 

 「この農作業小屋は、最近完成しました。福島の大工さんには少し手伝ってもらいましたが、作業小屋を借りて、墨付けをして、刻んで、自分で建てました。福島でもそうしていました。予算はありませんが、時間はたっぷりありますし、多少、手先が器用なもので・・・。」

 

−− 食害防止フェンスもご自身で?

 

 「ええ、そうです。食害防止フェンスも自分でつくりました。今は、ショベルカーで穴を掘って、バイオの力で分解できる特殊な浄化槽をつくっています。」

 

 多少、手先が器用というようなレベルではない。プロの大工さんが建てたといわれてもわからない。お住まいもご自身で改装されているそうだ。福島にあった什器も移動しておられて、いずれ、食品加工や研修生の受入れも可能なように建てておられる。

 

 奥様の日苗さんが、田んぼの草引きをするからと、昨年、誕生された太朗(たお)君を連れて来られた。村上さんの田んぼや農薬を散布していない田んぼの稲ばかりが鹿に食べられるらしい。動物も安心・安全な食物、食べ頃もよく知っているようで、そろそろ収穫しようと思った頃にやられるそうだ。農家の皆さんにとって、食害程、ガッカリすることはないそうである。心中をお察して申し上げる。

 

 村上さんは、1959年福島県田村市生まれ。農家の長男で、有機農業を営むお父様のご意向もあって、有機農業に取り組む農家の全国組織「社団法人全国愛農会」を母体とする「愛農学園農業高校」に進学された。三重県伊賀市にあり、全校生徒約60名、男女共学、全寮制で、神を愛し・人を愛し・土を愛する」三愛精神を教育の基本に、有機農業を教える独立の農業高校としては全国唯一の私立高校だそうだ。

 

足掛け20年間、海外協力で、自然農業の普及と持続可能な農村開発の活動に関わった後、「自然を収奪しない農の在り方と、人々から搾取しない生活の在り方」を探求するために、福島県相馬郡飯舘村に入植。大自然の中、ご夫婦で、haの広大な自然農園「なな色の空」を運営し、石窯天然酵母パン工房、自然食レストラン、農家民宿、農業研修、農業体験、里山自然体験等の事業、プログラムを次々に立ち上げ、農村で、人々が助け合って生活するエコビレッジ・コミュニティを実現しつつある矢先に、あの3.11の大震災による原発事故で全てを失われた。

 

−− 村上さんは、インドやバングラデシュでの海外協力活動されていたとか?

 

 「ええ、そうです。1972年から、独立間もないバングラデシュの支援活動をしていたNGOシャブラニール(ベンガル語で睡蓮の家の意、睡蓮はバングラデシュの国花)に知り合いがいて、個人的に海外協力に非常に関心がありましたが、卒業後、家の農業に従事し、考える間もなく忙しく過ごしていました。3年が経過した頃、難民問題が大きく取り上げられるようになり、思いが頂点に達して、父に話し、家を出ました。」

 

−− 海外青年協力隊とかですか?

 

 「いいえ、インドのガンジー・アシュラムに行きました。一般的にそう呼ばれていますが、正式にはサマンバヤ・アシュラムです。サマンバヤは調和、アシュラムは学びをする場、コミュニティという意味です。ガンジーの思想を受け継ぎ、アウトカーストの人たちの自立を支援している民間団体です。」

 

−− 何か、伝やご縁があったのですか?

 

 「ガンジー・アシュラムの指導者が愛農学園を訪問されたことがあり、愛農会の創始者で、愛農学園の学園長だった小谷(純一)先生と懇意にされていたというのもありますが、来るものは拒まず、去る者は追わずが、ガンジー・アシュラムの基本姿勢です。」

 

−− 海外協力活動には最低でも英語ができないと困るのでは?

 

「ハハハハ、その通りです。ところが、全くといっていい程、勉強していなかったので、1980年に家を出て、東京でアルバイトをしながら1年間、母校の愛農学園で助手をしながら1年間、計2年間、猛勉強をして、1982年、インドに渡りました。」

 

 「ガンジー・アシュラムは、インド東部、バングラデシュに近いビハール州のブッダガヤにあります。お釈迦様が悟りを開いた聖地として有名ですね。今では、チベット仏教の修行僧の町になっています。」

 

 「僕は、バッガ・スクールで、草刈りをして堆肥を作り、有機農業を教えていました。寄宿舎には30名程が寝泊まりし、周囲の集落から200名程が学びに来ていました。スタッフは10名程いたのですが、外国人は私だけでした。」

 

 「僕の居たところは、乾期が終わる4〜5月が一番熱く、40℃を超えます。その季節には何を着るかわかりますか?気温が体温より熱い訳ですから、毛布をすっぽり被って外の熱気を遮るんですよ。」

 

 「私には、いろいろな転機が訪れたのですが、そこでも農業感が大きく変わりました。インドの人は1日に1回は必ず沐浴する習慣がありますが、500年前には川だったところには水がないのです。2500年前にブッダが悟りを開いた頃には、ブッダガヤにも豊かな森があったはずですが、今は、森も川もありません。」

 

 「エジプト、メソポタミヤ、インダス、黄河の世界四大文明は、それぞれ、ナイル、チグリス−ユーフラテス、黄河という大河流域に生まれ、人類は文明を謳歌し、自然を収奪し続けた結果、砂漠化して人が住めなくなり、遺跡となりました。」

 

 「インドには1年間滞在して、日本に戻り、3年間、再び、家の農業に従事しました。その後、NGOシャブラニールから誘ってもらって、1985年、バングラデシュの首都、ダッカに現地責任者として赴任しました。現地スタッフが5〜6名で、周囲の5地域からやってくる約80名の人たちに読み書きを教え、共同して生活できるようにする支援活動及び、そのプランニングやコーディネートを3年間しました。」

 

 「その後、現地NGOプロシッカという、有機農業を教え、トレーニングする農業スクールにアドバイザーとして転じ、1haの農場の運営と有機農業を実践していましたが、自然農業のモデルになるようにと、いろいろ試みました。多様化を目指して、できるだけ多種類の農作物を栽培し、多層化も目指して、農地の周囲には果樹園をつくっていました。」

 

 「バングラデシュでは、強い雨が降り、土が流されてしまうことが多いので、刈った草でマルチング(土を覆う)をして表土を覆っていました。その後に行ったタイでは、生育が非常に早いレモングラスを農地の周囲に植え、次々に刈り取ってはマルチングに使っていました。また、ウリ科の植物につくウリハムシが大量に発生したのですが、しばらくウリ科の栽培を止めると、生態系は元に戻りました。」

 

 「福岡正信さんをご存知ですか?『自然農法・わら一本の革命』の著者で、自然農法の創始者ですが、僕は、その本を読んで感銘を受け、生前、何度かお目に掛かって、話を伺ったりすることができました。福岡さんは、若い頃、横浜で検疫官をなさっていたのですが、急性肺炎にかかり、死に直面したことで、『この世は、人間は何もしない方が良かった。』と悟り、仕事を辞めて、故郷の愛媛に戻り、その思想を農業で証明しようとされました。」

 

−− 北村太助さんもその本を読まれて、自然農を志されたそうです。福岡正信さんを取材したビデオも見せて頂き、まるで花咲爺さんのように種をバラ撒いて、多種多様な作物を育てておられるのを拝見して驚きました。

 

 「福岡正信さんの自然農法は、無耕起、無除草、無肥料、無農薬の4つの無が特徴ですが、単一の作物をつくっている農地とは様子が全く違ったでしょ?多種多様な作物を育てることで、多様性が生まれ、農地内の生態系の多様性とバランスを保つことができれば、さらには多層化し、ある特定の作物が不作の時や病虫害、自然災害等のリスク回避にもつながります。」

 

 「自然農業というのは、農薬や化学肥料を使わないのは、有機農業と同じなのですが、ひと言でいうと、自然の森を手本に学んだ農業といえばわかり易いかもしれませんね。」

 

 「農業の問題は、主に、土がダメになる、雑草、害虫、病気の4つですが、実は、それらは、人間が間違ったやり方をしているから起こっている問題なのです。」

 

 「約1万年前に人類は、自然の森を切り開いて農業を始めました。自然の森には、病虫害の元になる虫や微生物も住んでいますが、大発生して、病虫害を発生させることは、まずありません。それは、多種多様な植物、動物、微生物によって生態系のバランスが保たれているからです。」

 

 「しかし、農地では人間が食べる作物や、お金になる作物、欲しい作物だけを一度に沢山作るため、単一性になりがちです。この単一性が生態系のバランスを崩し、病虫害発生をまねく主な原因なのです。」

 

 「虫や病気の問題も、元を正せば、人間が自然を理解しないで間違ったことをしているから、問題として生じているだけです。虫や菌には、教えてくれてありがとうと感謝して、先生と呼ばなければならないのです。そういうふうに考えると問題は解決します。」

 

 「キャベツの害虫って何ですか?そう、アオムシ、モンシロチョウの幼虫ですね。モンシロチョウは1度に卵を何個生むかご存知ですか?1匹が約100個の卵を産みます。キャベツ等を食べて約1ヶ月で成虫になりますが、6ヶ月間で、何匹になりますか?メスが50%として、50の6乗、156億匹以上になるはずですね。ところが、福島では一切殺虫剤は使っていませんでしたが、一番外側の葉に1〜2匹ついていたらいいところでした。その程度なら、害虫とはいえません。」

 

 「アオムシを駆除しようと殺虫剤を散布すれば、アオムシを捕食する天敵のクモまで殺してしまいます。そのクモは、クモの巣を張る種類ではなくて、地面に住んでいるのですが、そのような行為は、食物連鎖と自然の循環の一部だけを断ち切り、結果として、生態系のバランスを崩すことに繋がります。だから、殺虫剤を撒くのをちょっと忘れていると、アオムシが大量発生して、キャベツが網目状になるまで食べられてしまうのです。」

 

 「ところで、害虫、雑草って、いったい何でしょう?ある人間にとって不都合な虫や植物のことですね。実は、タイ北部のタマネギ農家では、イネが雑草扱いされていて、イネ科用の除草剤を撒き、日本でも、稲作では、雑穀として食べられて来た粟や稗用の除草剤を撒いています。作る人によっては、食用の植物が雑草にもなるということです。」

 

 「ある特定の虫や植物を害虫として殺虫剤で駆除したり、雑草として除草剤で枯らすことが、自然のルールを無視して、ある種の虫が発生する原因や農業の問題をつくってきたのです。一部の人間の都合で壊していることを止めるべきなのです。」

 

 「肥料のことを少しお話しますと、化学農法が始まったのは、1960年代です。窒素、リン酸、カリウムが肥料の3要素といわれ、単位面積当りの収量を増やすのに効果があったため、これらの化学合成肥料の使用を推進してきましたが、長年、これらばかりを施肥していると土中の微生物や成分のバランスが崩れ、病気に掛かり易くなったり、収量が減ったりします。」

 

 「そこで、農薬の使用を増やしたり、カルシウムやマグネシウムも施肥するのですが、ますますバランスを崩して、悪循環に陥ります。亜鉛やマンガンその他の微量要素も植物の生育に必要とされていて、実は、まだ、植物生育のメカニズムの全てが解明されている訳ではなく、正しい施肥の方法もよくわかっていないのです。」

 

 「塩類集積ってご存知ですか?化学肥料の多用、不適切な灌漑、山林の伐採、そして気候の変化等々、原因は諸説ありますが、地中の塩類が地表に浮き出して集積する塩害が、世界各地で起こっています。これらは全て人間の浅知恵が招いた結果だといえます。」

 

−− 何だか、西洋医学が対処療法と言われている話とよく似ていますね?

 「その通りです。自然の森では誰も肥料を入れたり、耕したりしませんが、土はフカフカですよね?太陽エネルギーを取り込んだ植物が有機物を生み、全て土に返って、循環しているので、土は年を経るごとに豊かになってゆきます。だから、自然の森の土は、どんな農地の土よりいい土なのです。」

 

 「一方、農地では田畑から一方通行で農作物を収穫しますので、結果的に『収奪』がおこってしまい、自然の森のような完全な循環をすることができません。この『収奪』が、土壌劣化の主な原因です。」

 

 「また、自然の森では、太陽エネルギーや雨水を最大限活用できるように、上部から、高木、中木、低木、下草等が生えていて、多層構造になっているので、土の表面が太陽の光や雨に直接さらされることはないのです。それに、水をやらなくても木々は枯れませんよね?多層性構造の自然の森の土には、水を貯える能力があるからです。一方、ほとんどの農地は単層構造です。農業も自然の森から学ぶべきことを学べばいいのです。」

 

 「生きている豊かな土を保つためには、土の表面を自然の森のように植物や枯れ草などで覆い、土の表面を太陽や雨に直接さらさないことが大切です。それは、土の中で最も栄養が豊かで、微生物の活動が活発な『表土』を守り、流出を防ぐという理由からです。そのために基本的に不耕起・草生栽培(草を生やす栽培法)をするのです。やむを得ず耕すことになった場合、草マルチなどで、表土を太陽や雨に直接さらさないことを心がけます。」

 

 「飯館村の農園では、なるべく多くの種類(45〜50種)の野菜、穀物、豆、ハーブなどを植え、輪作をし、また、果樹などの木々を植え、多様性に富ませ、病虫害と呼ばれる虫や微生物が共存しつつも、大発生しない健全な農園の生態系バランスを保つことを目指していましたが、結果的に、収量も多く、病虫害はほとんどありませんでした。」

 「自然の森に雨が降り、その栄養分が地中から川に流れ込み、川や海を豊かにしているのは、ご存知の通りです。しかし、手入れされていない人工林では、多様性、多層性がなく、自然の循環も有効にならないので、保水力がないので、土砂災害が頻繁に起こる原因のひとつにもなっています。森林率が高く、人工林率が低い地域は豊かな地域と呼べるかもしれませんね。」

 

 調べてみると、三重県の森林率は65%、人工林率62%、森林率No.1は高知県の84%(人工林率65%)、人工林率が最も低いのは、沖縄県の12%(森林率46%)。ちなみに、日本全国では、森林率67%、人工林率41%だそうだ。

 

 自然林の面積、割合が多そうなのは、北海道(71%・27%)、岩手(77%・43%)、山形(72%・28%)、福島(71%・35%)、新潟(68%・19%)、富山(67%・19%)、長野(78%・42%)、岐阜(82%・45%)、京都(74%・38%)、広島(72%・33%)といったところか。

 「江戸時代は、鎖国をしていたので、食料の供給と消費は、日本国内でほぼ完結していました。大消費地である江戸での排泄物は金肥と呼ばれ、周辺の農地に運んで、肥料として活用し、農作物として江戸に戻す循環が確立されていました。与えられた環境で暮らす知恵を持っていたのです。」

 「自然農とは、自然のルールにそった農業です。自然を収奪しないで、農地に森が持っている機能を持たせること、農地内の土から出たものを農地内に戻すこと、つまり、農地を自然の森林が持っているような循環にすることなのです。自然の循環を有効にすると、生態系が多様化し、多層構造になります。」

 

 「バングラデシュの後、アフリカ各国、東南アジア各国に行き、タイでの5年間を最後に2002年に帰国しました。」

 

 「足掛け20年の海外協力活動を通じて、グローバルな視点から、世界の恵まれない人々の貧しさの構造を見えてきました。貧しい人々・国々があるのはどうしてでしょうか?それは、豊か過ぎる国々・人々がいるということです。」

 

 「途上国には、日々の食事もままならない、劣悪な住環境で暮らす貧しい人がたくさんいて、他方、米国には、コンピューターソフトの会社を興し、一代で、総資産が5兆円を超えるという大成功を収めた実業家もいます。あまりにもケタが違い過ぎてピンときませんが、5千万円の資産を持つ世帯なら、10万世帯分、1千万円の資産を持つ世帯なら、50万世帯分です。それも、10年前に3兆だったのが、10年間で2兆増えているのです。」

 

 「何故、この世には、豊かな国と貧しい国があり、こんな貧富の格差が生まれたのでしょうか?僕も、当初、日本は豊かな国と言われているのだから、貧しい国の人々を助けたいという思いがありました。しかし、海外協力に関わる中で、日々、貧しい状況がつくられていることがわかってきました。それは、日本も含めた自分たちで先進国と呼んでいる国々が決めたルール、勝手にグローバルルール、グローバル経済と呼んでいますが、富める者が貧しい者から搾取する合法的な搾取構造が世界を支配しているのです。」

 

 「いくら自由競争と言っても、1歳から百歳までの人が横一線に並んで、よーいドンではおかしいでしょう?そういうことによって、途上国の僕の友人たちが搾取されているのを実感しました。」

 

 「さらに、『経済』発展のための開発という名の下に、自然破壊が当然のように続けられています。1990年頃、タイに行った際、タイのNGOの人にある小高い山に連れて行かれたのですが、そこで見た光景は、見渡す限りの山々が全て真っ黒焦げだったのです。30年以上前には、幹周りが数m、高さが5〜60mにもなる巨木が生い茂っていたそうなのですが、ラワン材として全て伐採されてしまったというのです。」

 

 「その後、耕してトウモロコシを栽培し、いわゆる先進国に飼料として輸出していましたが、斜面を耕すので、雨で土が流されて、土がどんどんダメになって、10年程で作れなくなりました。次は、やせ地でも育つタピオカを栽培し、それも飼料として輸出しましたが、また、それも10年程で作れなくなり、もはや荒地となってススキや茅しか生えなくなって、年に1回、焼いているという状態でした。その熱帯雨林に住んでいた多くの少数民族は、開発により追い出されて、近くの町に移り、それがスラム化にもつながっています。」

 

 「日本は、国産材より安いという理由で、山ごと購入し、根こそぎ伐採して、どんどん輸入しました。そして、価格で太刀打ちのできない日本の林業は30年前から壊滅的な状態になり、国内産業のひとつを潰してしまったのです。最近では、熱帯雨林の伐採できる樹がなくなったので、寒帯林の北米や北欧、シベリア、また、オセアニアからの輸入を増やしています。」

 

 「『経済』効率を優先して、海外の森林や環境を破壊すると同時に、国策として奨励して植えさせた杉や桧の人工林が利用されなくなり、お金にならないので、間伐も手入れもされなくなって放置林となり、大雨が降れば、土砂災害が頻発するようになりました。」

 

 ラワン材は、子供の頃、フツーに見かけていたが、今では、ネット検索してもほとんどヒットしない。原料になったのはフタバガキという樹だそうで、東南アジアの熱帯雨林に広く分布していたが、成長が遅く、乱伐のため、絶滅が危惧されているとのこと。今、ホームセンターで主に売られているのはSPF材と呼ばれる北米産の松科の常緑針葉樹だという。

 

 「本来、水は高いところから低いところに流れますが、今の先進国が作った『経済』のルールでは、お金は低いところから高いところに上がるようにできています。自然の摂理とは逆の方向に向かう『経済』の仕組みで、勝ち組になるというのは、自然破壊を進め、弱い人々をさらに苦しめる以外には、達成できない生き方です。」

 

 「では、勝ち組になることが本当に幸せなのでしょうか?世界の中で、勝ち組と言われている日本でも、正規、非正規労働者、勝ち組、負け組の格差が広がり、勝ち組もいつ追い越されるかというストレスをいつも抱え、毎年3万人が自殺しています。どこかの誰かにお金が集中することで、どこかの誰かにしわ寄せが行って、苦しめているのです。」

 

 「日本を含めた先進国とそれらの国の人々がアジアの森林を伐採し、材木も農産物も収奪し尽くして、あとは荒地という光景を幾度となく見ました。自分さえ良ければ何をしても良いのでしょうか?貧富の差がつくる不満や怒りが世界各地で軋轢を生んでいます。

 

 「1991年、湾岸戦争の時、イスラム教徒の多いバングラデシュでは反米運動が起こりました。現地で活動していた僕は、宗教間の問題だけでなく、先進国の合法的な搾取にも大きな怒りが向けられていることを肌で感じました。」

 

「そして、2001年、9.11の事件が起こりました。罪のない人を巻き添えにするテロ行為は断じて許せませんが、一部の人の怒りが頂点に達した結果だという見方もできます。もし、あの航空機が原発に飛び込んでいたら、連鎖的に世界が破滅していたかもしれません。」

 

 「『経済』を豊かにするということは、富める国々・人々が貧しい国々・人々から合法的に搾取すると同時に、それらの国々の環境も破壊しているという事実をずっと目にしながら、20年間、海外協力をしてきましたが、いよいよ限界にきていると感じました。」

 

 「途上国でもインターネットをはじめ、通信技術が発達したことで、情報操作ができなくなり、途上国の人々も世界の実態を知り、不満や怒りを持っている人たちが増えています。事実、最近では、リビアやエジプトの独裁政権でクーデターが起こりましたが、国内の不満が国外に向けられないとも限りません。」

 「テロを武力や力で押さえ込んでも、その場しのぎであって、苦しみや怒りの根本的な原因を取り除かない限り、また、怒りが頂点に達して、破滅的な行動をする人が現れるのではないかと、とても心配です。」

 

 「人間が生きるために、『経済』という考え方を押し進めたことで、人間が生きるために最も必要なものを全て与えてくれる『自然』を破壊し続けていて、争いの元となる搾取される側の怒りを買うような行為を続けています。僕は、海外協力の現場で実際に見てきて、このままでは、このどちらかで人類という種は自滅を招くと感じました。」

 

 「人類という種の自滅を本気で止める方法はひとつしかありません。競争して勝ち組になれば、自分だけは幸せになれるというのは幻想だということに気づくことです。地球というひとつの乗り物のキャパシティは限られています。1970年代初めには35億人だった人口が、今では70億人を超え、たった40年の間に2倍になろうとしています。このような現実を冷静に見ていけば、僕たちの子供の世代、その次の世代には、未来がないのは誰にでもわかるはずです。」

 

 「それに対して、自分に何ができるのか?あまりにも無力であることを自分自身が一番よく知っています。無力であっても、人間は地球上で持続的に生きていけるひとつの種でもあります。それは、考えて行動できるからです。持続可能に人間が生きていくにはどうすべきか?自分たちが生きていくためには何が必要か?という原点に戻って、自然との関係、人との関係を見直すことです。今、ここで変えなければ、僕たちは、変わりようがないと思いました。」

 

 「自然を壊さずに共生して、人々と協力し合って分かち合う方向しかないのです。言葉でいうのは簡単ですが、今の『経済』の仕組みで生きてきた僕たちは、あまりにもそういうことに頭も心も慣れていません。どうすれば自然を壊さないで生きられるか?人と共同して作り上げ、分かち合う喜びが、人と競争して勝って独り占めする自己満足を超えられるような生き方、考え方はないのか?ということを学ばなければなりません。」

 

 「価値観は色々ありますが、すぐにできなくても、実際にやっていけば学べるだろうと思い、自然を収奪せず、人を搾取しない生き方を探求するために、農村で暮らし、農を礎に、人々が協力し合って、学べる場であるエコビレッジを作ろうと決意して、日本に帰国しました。」

 

 「家の農業はすでに弟が継いでいましたので、新たに農地を探していたところ、福島県に住む友人が飯館村の土地を紹介してくれました。飯舘村は、満州から引き上げてきた山形県の人々によって開拓された中山間地域で、今では、過疎地域、限界集落と呼ばれていて、『経済』的に価値がないと切り捨てられている地域ですが、そこにはきれいな空気・水と、食住衣を与えてくれる豊かな自然が有り、人間が生きていくために必要な全てがあると感じました。」

 

 「あるNGOのアドバイザーとしてエチオピアに行きました。その国土のほとんどが荒涼とした荒地で、雨期にテフという穀物を栽培して主食にしているのですが、それ以外の作物はほとんどできません。プロジェクトの農地は国道から歩いて5時間程掛かり、山の荒地の住民たちは水を川まで汲みに行くのに最低でも30分から3時間、一応、貨幣は存在しますが、週に数度開かれる市場では、物々交換という貧しい生活でした。しかし、川が流れる周辺だけは、緑が有り、作物も採れる豊かな地域でした。その風景を見て、動物である人間が生きるためには、豊かな水と土があるところが最適であることを再認識しました。」

 

 「飯舘村の農園の近くには美味しい水を湧出する泉が2箇所あり、小川となって流れ、敷地内にも良質な湧水が5箇所ありました。訪ねてくる人たちに、この地域では、アラブの大富豪にもできない、トイレを流す水も、風呂の水も天然のミネラルウォーターを使うという贅沢な暮らしをしていますが、豊かな自然が与えてくれるので、全部タダですと、自慢していました。」

 

 「日本中の中山間地域というところは、どこに行っても水が豊富に溢れ出ていて、その水で稲作ができ、さまざまな作物を作れ、山々には木々があって、家を建てたり、燃料にしたりできる世界中でも稀な地域です。エチオピア他の国々ではそういう村を欲しているのですが、日本では、この生きるために必要なもの全てを与えてくれる自然を『経済』的な価値がないものとして捨て去ろうとしているのです。」

 「土地といっても10年間耕作放置されていて、ほぼ荒地、山林でした。開墾からはじめ、入植後、9年をかけて、haの広大な自然農園、パン工房、農家レストラン、ピザ用の石窯をつくり、研修生の受入れもして、想い描いたエコビレッジが実現しつつある中、あの地震で起こった原発事故で、それまでの努力、思い出、生活の全てを失いました。」

 

「2011年3月11日の朝は晴れていました。1 年間の農業研修を前年の12月に終えた研修生が、家造りも学びたいと言うので、農家民宿用のバンガローを建てるために、1月から木材の『墨付け』や『刻み』という構造材の加工、準備を一緒にやってきて、いよいよ棟上げという日でした。」

 

「午後になって、雪が降ってきたので、予定していた作業を取りやめ、午前中に棟上げした小屋の最終チェックをするために屋根に上り、作業を始めた時にあの地震がやってきました。ゴーッ、ゴゴーーッという凄まじい地響きと共に、激しい揺れが襲ってきました。振り落とされないように梁にまたがり、固定したばかりの母屋の束につかまって、地震がおさまるのを待ちましたが、繰り返し、強い揺れが襲ってきました。」

 

 「揺れの合間をぬって、棟から降り、自宅、レストラン他の被害状況を確認しましたが、幸い、被害は最小限で済みました。4時のニュースでは、原発は全て停止したと報道していたので、ひと安心していました。」

 

 「地震直後に停電したので、車のバッテリーで電源を確保し、早めの夕食を作って、ロウソクの灯りで食事をしながら、こんな時は、自給をしている農家は強い。米は2年分以上の蓄えがあるし、野菜、穀物、味噌、水、調理をする薪等、生きるために必要なものは全てある。ここなら、陸の孤島になって、外からのライフラインが全てストップしても生きていけるねと、研修生と話していました。」

 

 「ところが、その時、ラジオから福島第一原発の1号機の非常用電源が壊れて、全ての電源を失い、冷却不能に陥っているとのニュースが飛び込んできました。私は、反原発の活動に関わっていたので、冷却水が無くなり、燃料棒が冷却できなくなると、メルトダウンを起こし、最悪の場合、水蒸気爆発が起こる可能性があるのは知識として知っていました。あのチェルノブイリ原発事故が頭をよぎりました。」

 

 「私たちの住む飯舘村は、原発から北西40kmです。ついにこんな日がやって来た、目指していたことをあきらめなければならないのかと、最悪の事態を想定しました。夜10時頃、冷却水が炉心より上まで入ったというニュースが入ってきて、原子力の専門家が、『原子炉はきちんとコントロールされたので、安全です。』と、状況を解説していたので、少しホッとして布団に入りましたが、原発のことを考えて、眠れずにいました。」

 

 「深夜2時頃、福島の友人のところへ行っていた妻と子供たちが雪の中、車で帰ってきました。反原発運動をしている友人が仲間からの情報を集めたところ、再び、第一原発の炉心が露出し、そのままの状態が続くと最悪のケースが予想されるから、すぐに一緒に逃げようと言われたが、私と研修生を置いていく訳にいかないと戻って来たというので、インターネットで検索し、12日午前2:05に炉心が再び露出したという最新情報を見つけました。」

 

 「原子炉はコントロールを失い、暴走しかけていると判断しました。事態は急を要しました。とにかく、子供たちの被爆だけは避けたかったので、研修生にも避難することを伝え、急いでとりあえずの着替えと食料を積み込み、原発から北西に約100km離れている山形の米沢にいる妹のところに向けて、午前3時に出発し、朝6時に到着しました。」

 

 「12日午後3時頃、ついに、第1号機の原子炉立建屋で水素爆発しました。13日には非常事態宣言が出て、3号機が冷却水減少、炉心露出と1号機と全く同じ状態になりました。この現実を見た時、東電も政府もこの様な事態を全く想定しておらず、なす術がない状態であると察知しました。当分戻れないと覚悟を決め、14日の早朝、研修生を岐阜県にいる彼の奥さんの元へ送り、妻の実家のある浜松に向かいました。そして、車の中で3号機が非常に大きな水素爆発を起こしたことを知りました。」

 

 「妻の実家に泊まり、今後のことを考えていると、福島の友人たち20名程が県外で避難できるところないかと尋ねられ、思いついたのは、三重県伊賀市にある愛農学園と愛農会でした。私は、愛農学園の卒業生で、愛農会の理事でもありました。早速、愛農会に避難者受け入れの要請をしたところ、避難場所として、同窓会館を提供してくれました。私たち家族は、岡山の友人のところに行くことになっていましたが、予定を変更して、16日には、愛農に向かいました。」

 

 「飯舘村の放射線量は35マイクロシーベルトで、通常時の千倍、いわゆるホットスポットになっているとの報道がありました。入植して9年、6ha の敷地に自然農園、自然食レストラン、石窯、バンガローを作り、この春からは、エコビレッジ・コミュニティを目指して、協力、恊働してくれる家族が移住して来ることになっていましたが、これで、戻ることは絶望的になりました。」

 

 「今後のことを考えた時に、私は、キリスト教徒ではないのですが、子供の頃に見た『ソドムとゴモラ』の物語の挿絵の光景が脳裏に浮かんできました。」

「ソドムとゴモラ」とは、旧約聖書の「創世記」に出てくる街の名前だそうだ。神に対して多くの罪を犯したとされるこの二つの街は、神の怒りに触れて滅ぼされるのだが、ソドムに住んでいた正しい心を持つロトには、事前に神からこの二つの街を滅ぼすことを告げられ、天使たちはロト一家を救うため、ロトと妻、2人の娘の手を引いて街の外に連れ出し、近くの町までロトたちが逃げてから、神は天から火の雨を降らして、ソドムとゴモラを滅ぼした。せっかくソドムから逃げ出したロト一家だったが、神が「逃げる途中、決して後ろを振り返ってはならない」と告げたにもかかわらず、ロトの妻は後ろを振り返ったため、塩の柱になってしまったという。

 

 「ソドムとゴモラ」でネット検索すると、火の雨が降り炎で燃え上がる街を背景に、逃げるロトと思われる一家が、稲妻で照らし出される光景を描いた絵がヒットするだろう。著作権フリーの画像を見つけたので掲載しておく。

 

 「決して後ろを振り返ってはならないというのは、振り向く必要がないということだと理解しました。心静かにしていれば、自分がすべきことは自ずとわかる。子供たちの食べ物の心配も要らないと、告げられているような気がして来て、不思議と、執着も不安も、不要なことを考えることも無くなりました。今に生きて、やるべきことをやればいいんだという冷静な気持ちに変わりました。」

 

 「それからは、愛農会での避難者の受入れと支援に全力を尽くしました。延べで80人以上を受入れ、近くで貸してもらえる家も探し、6家族が利用しました。そして、約1ヶ月後には、避難者の皆さんはそれぞれの行き先を決めて、愛農会から旅立って行ったのです。」

 

 「一段落した5月初め、見ず知らずの方から、フランスで原発事故の話をして欲しいという依頼を受けました。原発への依存度が70%を超えるフランスでどうしてなのかと思いながらも、渡仏し、5箇所で講演したところ、大きな共感のエネルギーを感じました。」

 

 「それからは、原発事故後の1年間は、体験した事実を伝えることが僕の使命だと思い、延べ100回の講演活動をしました。そして、2012年3月11日からは、農業を優先順位の1番に戻して、新たな農地探しを始めました。実は、この場所はネットの航空写真を表示できる地図情報サービスで目星を付けていたのですが、2012年5〜6月に、ここを訪れ、この辺りの農地委員、地権者の方々にお会いして、お話をしたところ、どうぞ使って下さいということになり、お借りして、2012年9月から開墾を始めたのです。」

 

 「基本的に、水やりもしませんが、苗の間と植付けの時は水やりをしないと枯れてしまいます。今から水やりをしに行きますので、ついでに、畑も見て頂きましょう。」

 

作業小屋から歩いて下り、食害防止フェンスのゲートから入ると大きな桑の木があり、周りにブルーベリーのポット苗が山ほど置いてあった。

 

 「かぼちゃがだいぶ伸びて来ましたね。茄子も実がついています。そっちはとうもろこしです。間に生えているのはいわゆる雑草です。もう少し茂ったら、刈り取って土の上に敷きます。先程お話ししたように、農地の広いところでは4〜50種類の野菜をつくり、周囲には果樹を植え、ブルーベリーなんかは斜面に植えます。」

 「桑の木を始め、自然の雑木、茅や草がうっそうと茂っていました。この桑の木は立派だったので残しましたが、今年も実がたくさんなりました。あの辺りは昔、池だったようですが、今は湿原になって、表面には泥炭層ができています。地下は水がめのようになっていて地下水が豊富です。」

 

 「はい、どうぞ。」と、日那ちゃんがブルーベリーの実をひとつ手渡して下さった。太朗くんは?と、目をやると、大地を這い回っておられる。「ハハハハ、ウチは放し飼い状態です。子供たちは自然と遊んでいると飽きないみたいで、全く手が掛かりません。」と、村上さんがおっしゃったが、おふたりとも、村上さんの話をお伺いしている間、特にムズがることもなく、そこら辺で、やりたい放題、好き放題なさっていて、実にワイルドで、たくましいのである。将来、何があっても、この子たちならやっていけると思った。

 

都会でアーバンな生活を満喫して、アレしちゃダメ、コレしちゃダメと、なんかあったときにきっとサバイバルできないおぼっちゃま、おぢゃうちゃまをお育てのご父兄のみなさま、先ずは、ご自身の生き方から見直しをされては如何・・・?

 

 「将来の子どもたちのことを真剣に考えるならば、人間が生きるために何が必要でしょうか?きれいな空気と水、安全な食・住・衣です。人類は、自分たちの文明の発展のためにと、自然を収奪し、生きていくために真に必要なものの質を落として、壊し続けています。これから先も人が地球で生きていくためには、地球の自然と環境に優しくするしかありません。」

 

 「現在の飯舘村の汚染度は、チェルノブイリ原発事故で強制移住区になり、二十数年経った今も人が戻れない地域の2〜4倍で、調査した友人の大学教授から100年は住めないだろうと聞かされました。」

 

 「避難を余儀なくされた人は11万人、自主的に避難した人を合わせると16万人の国内難民を出しました。飯舘村は、計画的避難地域に指定され、全村1700世帯、6000人以上が避難していますが、これから3千2百億円をかけて除染をして、2014年秋か2015年春には、帰村宣言を出すと言っています。その除染は、家屋と畑を5年間かけてやり、村の80%を占める森林はしない、除染目標の放射線量はやってみないとわからないと言うのですが、それで帰村して安全だと誰が思いますか?」

 

 これは全くの私見だが、筆者も阪神淡路大震災の被災者である。やってみないとわからないことに3千2百億円もの血税を使って、どうして、わざわざ危険(少なくてもワタクシは住みたくない)な地域に帰村させるのか?除染した土はどこに持っていくのか?甚だ疑問である。日本中に中山間地域は山ほどある。1世帯に2億円づつ渡して、安全な場所で生活再建した方が、よっぽど前向きな復興だと思うが、ニュース報道を見ていると、「先祖代々の土地に戻りたいから、何兆円掛かろうが、安全に住めるようにしてくれ!」と訴える住民?もいる。気持ちはわかるが・・・。

 

 シロートが考えても、元の生活に戻れるはずがない。多分、おいしかったであろう、そこの湧き水や井戸水はまず飲めないだろうから、補償で、ペットポトルの水を飲み続けるのだろうか?農業用水はどうするのだろう?風呂や洗濯の水は?そこで生産された農産物は誰が買うのだろうか?ん?ということは、この先ずっと生活補償をするのだろうか?申し訳ないが、良識を問いたい。

 

「あの原発の事故をどう思いますか?僕は自然からの、あるいは神からの警告だと思っています。東の端にある福島原発がこの事故を起こしたので、空気中に放出された放射性物質の90%位は偏西風によって海に飛ばされました。10%の放射性物質が国土に飛散して、16万人が避難したのですが、もし、若狭湾で起こっていたら、東側にある東京も含めて比較にならない面積の国土が汚染され、避難民は一体どれほどの人数になっていたか?実際に起こったら、日本も、あの『経済』も終わるんです。」

 

 「なのに、たった2年で、原発事故の処理がもう終わったかのような風潮で、あの『経済』のために原発を再稼働しようとしています。原発事故の処理にはこの先、何年掛かるか、まだメドも立っていないのですよ。自分たちの子供のことを真剣に考えるなら、どうしなければならないか、自ずと答えは出るはずです。」

 

 「せっかくやってきたことが無駄になったと執着することは、悲しみや苦しみを増加させます。後ろを振り向いても仕方がありません。人生が『立ち往生』してしまうだけです。あの震災の意味について、ひとりひとりが、自分なりの意味を見出すことで、前を向くことができます。いつでも人は今を生きるしかありません。僕は、あの日から前だけを向いてきました。」

 

村上さんのように考え、行動される被災者が、一人でも多くいらっしゃることを願うばかりだ。

 

 「僕は、農から離れた生活はできません。まずは自分がしないと、人にすすめることはできません。ここで、もう一度、自然を収奪しないで、食料もエネルギーも自給自足できる生活と、人を搾取しない生き方を探求して、人々が協力し合い、大人も子供も一緒に学べる場であるエコビレッジを作ります。それが、僕ができる未来の子供たちへの責任だと思っています。」

 

−− 村上さんのような方がこの世におられて、お会いすることができ、お話を伺えて嬉しいです。何とかなるような気がしてきました。是非、他の受賞者の方々にも村上さんのナマの話を聞かせて差し上げたいのですが、今年の12月7日の予定は空いておられますか?

 

 「12月7日なら、今のところ空いていますよ。」

 

−− 有難うございます。ギャラも何もご用意できませんが、宜しくお願い致します。北村さんも喜んで下さると思います。いやー、自然の森と自然農は、貧困、格差問題、子供たちの明るい明日や持続可能な社会とも全てがリンクしていたんですね。漠然と考えていたことが、スッキリと理解できました。有難うございます。村上さんにご指導頂けるなら、なんか、ワタクシも3平米ぐらいから自然農を始めてみたいと思いました。

 

 「えっ?それは一ケタ違いますよ、30平米ぐらいからどうですか?ハハハハ。」

 

 なんて徳の高い方だろうと思った。13時過ぎから始めて、気が付いたら18時30分。実に、5時間半に渡ってお話を伺っていて、心が洗われるような思いがした。終始、柔和な笑顔で、穏やかな口調だったが、不撓不屈の精神と揺るぎない信念、強い意志がビシバシと伝わって来た。

 「搾取」という言葉を聞くと、資本家が労働者を搾取すると資本主義を批判したマルクスを思い出すが、村上さんが言わんとするのは、そんな次元の話ではない。

 

 社会主義や共産主義は、平等だとか言っておいて、指導者がいつの間にやら、特権階級や独裁者になり、管理統制したが、時間給的な労働価値には限界があり、経済が行き詰まり、国民の不満が爆発して、ソ連や東欧諸国は崩壊し、中国は、政治的には一党独裁を固持して、社会主義市場経済という全く不可解な市場原理を導入している。

 

 そういう政治体制とか、今の資本主義、自由経済市場云々、以前に、現代の社会システムが世界的に破綻し始めているのは多くの人が感じているはずだ。

 

村上さんは、子供の頃から、有機農業、そして自然農業を営み、20年間に及ぶ社会協力の現場で、貧困に苦しむ国々・人々を目の当たりにし、ひとつの地球に世界の人口が70億人を超える今、このままでは人類という種が自滅してしまうと警告し、人間が生きていくために必要なものは何か?と問いかける。

 

 そして、未来の子供たちに、持続可能な世の中を実現していくには、「自然を収奪しない」、「人を搾取しない」考え方、生き方、暮らし方しかないと確信し、自ら、農村で実践してこられたが、震災・原発事故の被災を乗り越え、ゼロから再び立ち上がられた生き様には敬服するしかない。

 

 実は、COREZO(コレゾ)賞・財団のマークの「ミツバチ」は、地球上の60%以上の植物の受粉を担う命の象徴であり、「命・自然を大切に」すること、ひとつひとつの花(ガク)が集まって大きな花になり、それがさらにまとまってひとつの株になる「「アジサイ」には、国も主義も民族も宗教も超えて、批判せず、お互いの善いところは認め合い、「ひとりひとりが自立して、それぞれの役割を果たし、緩やかにつながって、協力しながら、大きな花を咲かせ、それがまとまって大きな株になるような世の中」を表している。

 

 人に雇われて働くのと、自分で働くのをやってみると、圧倒的に楽なのは人に雇われて働く方。個人の名前より会社の名前や肩書きがモノを言う。A4の企画書1枚で何千万円が動いたり、肩書きが付くと給料が上がったり、全く売上がなくても給料がもらえたりする。組織の歯車として働いている限り、労働の対価としての報酬の実感は薄く、資本家に搾取されている実感もない。しかし、人に雇われて働くのをやめると状況は一変するのである。

 

 そんなことを親や周りから、なんとなく察知した人たちが、勉強をして、いい学校を出て、大企業や役所に勤めるのが一種のステータスになっている。都会で暮らして、村上さんがおっしゃる、今の『経済』のシステムにどっぷりと浸かってしまうと、見えなかったり、気づかない事も多くある。また、気づいても、頭が反応しなかったり、考えたり、行動するのが面倒なので気づかないフリを決め込んでしまう人も多いだろう。

 

 わからん人にはわからんし、気づいた人から始めればええのだが、気づいた時には手遅れにならないように、気になった方から、村上さんの言葉に耳を傾けて欲しい。

 

 2012年、福島を訪れ、被災地の現実を垣間見て、少し、悲しい気持ちになったが、村上さんは、海外協力、自然農業、学びの場、震災・原発事故被災からの復興という多層構造でスゴい方である。全くそんなことを感じたことはないのだが、村上さんは、何かしらの天命を帯びた方かも知れないと思った。出会えてお話を伺えたことに感謝である。

COREZO (コレゾ)「日本の財、震災を乗り越え、自然農園を再開し、未来の子供たちに、自然を収奪せず、人を搾取しない生き方を探求する、不撓不屈の農業家」である。

 

付記

被災者でもある村上さんご夫婦は、2012年6月より福島へ野菜を送る活動を続けておられる。集った募金で伊賀地区の有機農業グループから野菜を原価で譲ってもらい、南相馬鹿島区で被災者支援をしている友人たちに送っておられる。

http://nanaironos.exblog.jp/i15/

 

 少しずつでも、長い支援が必要なのだが、最近では、募金が少なくなり、いつまで続けられるかわからないそうだ。

 

 ご賛同頂ける皆さんには是非ご協力願いたい。

 

 野菜サポーター募金 1口 500

 振込口座:ゆうちょ銀行 02210-4-107165 なな色の空

 * 通信欄に「野菜サポーター」とご記入ください。

 

村上 真平 (むらかみ しんぺい)さんに関するお問い合わせは

メールで、info@corezo.org まで

※本サイトに掲載している以外の受賞者の連絡先、住所他、個人情報や個人的なお問い合わせには、返答致しません。

 

COREZO (コレゾ)賞 事務局 (文責 平野龍平 最終取材2013.07. 編集更新2013.10.10.)

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