梅木てる子さん


COREZO
(コレゾ)「
農家に嫁いで、お客様と交流したいと一念発起、豪雨災害も乗り越える野の花の宿の女将」賞
梅木  てる子(うめき てるこ)さん

熊本県阿蘇市出身、在住 
野の花の宿 阿蘇の四季 代表

http://www.asonoshiki.com/


農業

 

ジャンル

観光・地域振興

旅館経営

食・農業

経歴・実績

1987年 「阿蘇の四季」開業

1990年 平成2年阿蘇豪雨災害

      災害から復旧し、営業再開

      会社組織に変更し、増築に着手

2012年 平成24年阿蘇豪雨災害

受賞者のご紹介

梅木 てる子(うめき てるこ)さんは、熊本県阿蘇市の野の花の宿「阿蘇の四季」の女将さん。2005年、ある観光地域振興事業の仕事で、阿蘇地域がその対象地域になり、当時、財団法人阿蘇地域振興デザインセンター(以下、阿蘇DC)の事務局長をされていた坂元 英俊(さかもと ひでとし)さんにご紹介頂いて、宿泊で何度かお世話になっている。

 野の花の宿「阿蘇の四季」は、その名の通り、敷地や庭、館内の至る所に咲く野の花とてる子女将の笑顔に出迎えらえる。名物の手作りおはぎと抹茶でホッと一息。残念ながら、筆者は甘いものが苦手だ。一番広い露天風呂「四季の湯」、巨岩をくり抜いた「お月様の湯」、アジアンリゾートのような「乙女の湯」、五角形の桧風呂「桧の湯五岳」とそれぞれに趣向を凝らしたお風呂があり、貸切風呂にできるので、他の客に気を気を遣わず、ゆっくりと浸かることができる。

 部屋出しの会席料理もあるが、「阿蘇の四季」の名物でもある炭火焼処で、「炭火焼き料理」を頂く。黒毛和牛をはじめ、地鶏、ヤマメ、農家を営むてる子女将のご主人が育てた新鮮な旬の野菜等を炭火で焼きながら頂く。今どき、山の中でも新鮮な魚介類も手に入る。献立もバラエティーに富むように、川魚のヤマメは焼くので、刺身は海のものを使うようにしているそうだ。

 てる子女将は、毎晩、夕食時には、野の花がきれい飾られた器に入った冷酒を柄杓で注ぎながら、再訪したお客さんにも、初めてのお客様にも親しく会話をしながら、お客様のテーブルを廻られる。

 到着が遅くなったので、一番最後まで食事をしていたのだが、係の若い女性から、「お客様は関西からですか?」と、声を掛けられた。「えっ?3代続く江戸っ子やけど、なんでわかったん?」、「アハハハ、やっぱり、女将さんと話しているのが聞こえたので。」と、お母さんが女将さんの知り合いで、アルバイトをしているという地元の阿蘇から熊本市内の大学に通う学生。「いつもお客さんに声を掛けてるの?」と尋ねると、


 「ええ、まあ、若いカップルで声の掛け難いお客様には遠慮しますが、女将さんから、できるだけお客様と会話をするように、と教えられていますし、ここには日本全国からだけでなく、海外のお客様もこられるので、いろいろ、教えて頂くことも多くて、楽しいですよ。熊本市内でアルバイトしていたら帰りが遅くなりますし、私も有難いです。」

 てる子女将の姿をアルバイトの大学生もよく見ているのだ。ある観光地で観光協会の事務局長から紹介された旅館で1泊して、「いらっしゃいませ」と「有難うございました」の二言しか声を掛けられなかったことがある。

 「宿坊あそ」の宮本 吉博(みやもと よしひろ)さんから、「『阿蘇の四季』の女将のてる子は、おっちゃんの妹だよ。おさな妻でお嫁に行ったの。『はなびし』の博史ちゃんも甥っ子だよ。」と聞いてビックリ。全く知らずに、コレゾ賞の候補にしていたのだ。

 そんな話をてる子さんにすると、

 「そうなんですよ。農家の三女で末っ子に生まれました。宮本吉博は一番上の兄です。梅木家からはね、私の姉を嫁に欲しいと言われていたそうなのですが、いろいろ事情があって、縁談がまとまらなかったので、私はどうかという話になったんです。」


 「しっかり者の姉と違って、私は末っ子の甘えん坊で、当時、まだ高校生になったばかりなのに、農家の長男に嫁ぐなんてとても無理、と母も反対していたのですが、一度会ってみるだけならということになって、今の主人が、ホンダのCBという当時とてもかっこいいバイクで迎えにきてくれて、かわいい人形をプレゼントしてくれたんです。」

 「この辺りでは、親見て嫁をもらえ、といって、私の母の娘なら間違いないから、学校は梅木家から通わせるので、是非、嫁に来て欲しい、という話になったのですが、母は断るつもりだったそうです。私は小さな頃から人形が好きだったもので、その人形は特に気に入ってしまって、嫁入りを断ったら、その人形を返さなければならないと思い込み、私からお嫁に行くと言って、嫁いだという嘘のような本当の話です。」

 「いざ嫁いでみると、学校に行くのが急に恥ずかしくなって、すぐに辞めてしまいました。こちらの両親はかわいそうに思ってくれて、お花や習字、俳句等の習い事を一通りさせてくれました。」

 「農家の嫁は、田植え時期には朝3時には起きて、朝食の用意と、昼食はこの辺りでは早乙女(さおとめ)さんと呼んでいる田植えを手伝ってくれる女衆の皆さんの分も作ります。お昼に食べるのは『こびる』といって、農作業の合間に簡単に食べれるように茶碗二つを合わせて作るような大きな握り飯が多いのですが、『はなびし』の大きな田舎いなりも田植えの時期の『こびる』の名残りなんですよ。それで一緒に田植えもして、当時は農耕機械もなく、全部手作業だったのでとても重労働でしたね。」

 「最初は、辛くなかった、というと嘘になりますが、こちらの両親はほめ上手で、いつもニコニコして、よう働く、ええ嫁だ、とほめてくれるんです。ほめられると嬉しくなって、もっとほめられようと張り切るんですね。どんどんヤル気が出てきて、しばらくして慣れてくると辛いとか思ったことはなかったですね。」


 「主人も気遣って、ケーキや甘いものをよく買ってきてくれましたし、農家が一番忙しいのは田植えと稲刈りの時期なんですが、それが終わると、いつも1週間の休みをくれて、主人と車でいろいろな所へ旅行しました。それが楽しみで・・・。時々、両親は、実家の母も連れて行ってあげなさい、と余計に旅費も持たしてくれました。」

 「高校は途中で辞めて、卒業しなかったのですが、中学、高校の同窓会は有難いことにいつもウチでしてくれています。4年に1回のペースで開いていたのですが、前回、急に参加人数が減って、そんな歳になったのかなって、2年に1回にしようということになりました。」

 「どうしてこの宿を始めたのかというと、それが色々ありまして、30歳の時に、梅木の両親が、嫁入りして、修学旅行にも行けなかったので行かしてやろう、と言ってくれて、小学生だった3人の子供も、当時はまだ飼っていた牛の餌やりや世話を引き受けてくれて、主人とヨーロッパ15日間のツアーに参加したんです。文化や歴史の違いに衝撃を受けました。井の中の蛙だったのがよくわかりました。」

 「その時、すでに『民宿あそ』を開業していた実家の母や兄が大変そうなのに、お客様と楽しそうにしているのを見て、羨ましく思ったのと、宿をすれば、歴史や文化の違う人々にも泊まりに来て頂いて、交流できるのではないか、と思ったんです。」

 「主人に相談したら、自由を失って何も出来なくなる、と大反対でしたが、子供が全員独立して、手が離れてから、どうしてもやりたい、と改めて頼んだところ、渋々、許してくれて、自分は農家しかしていないから、民宿のことは何も出来ないが、協力はすると言ってくれました。その時に、ゴルフもやめてくれたようです。実家の母は、お客様におはぎぐらい出しなさいと、何回もダメ出しをしながら教えてくれました。おかげで、今では母に負けないおはぎを作れるようになったと思います。」と、てる子女将。

 そして、1987年、ご主人が自分の山から切り出した木材を使って、納屋を改造し、客室5部屋の念願の民宿を開業した。どうして来て下さるのかよくわからなかったが、布団部屋でもいいから泊まらせて欲しい、というお客様もいらっしゃるぐらい繁盛した。今も名物になっている囲炉裏の食事処を開業時から設置して、炭火焼料理が好評だったからではないか、とおっしゃる。


 ところが、1990年、阿蘇市一宮町坂梨地区を最大時間雨量67mm、連続雨量628mmの豪雨災害が襲った。あちこちの山肌が崩落し、死者12名、住宅全半壊182棟、床上下浸水2505棟を数えた。ちなみに、2012年7月の豪雨災害での阿蘇市全域での被害は、死者21名、全半壊74棟、床上下浸水2346棟であったそうだ。

 てる子さんの自宅、納屋、牛小屋、蔵は土砂に流されてしまった。民宿も床上浸水し、土砂をかぶり、辛うじて建物は助かったが、あまりの惨状に呆然として、言葉を失った。

 しかし、災害の当日、「1ヶ月後の予約はキャンセルしません。必ず行くので、復興は大変だろうと思ますが、がんばって下さい。」と、お客様から1本の電話があった。挫けかけていた心に少し陽が射した。

 「自宅他は流されてしまったが、幸い、ケガもなく、命は助かった。民宿も残った。元気を出して、前向きに行きていくこそが復興だ。」と、決意し、家族と従業員も一致団結して、コンテナハウスで暮らしながら、復興に取り組んだ。

 近隣の皆さんを始め、九州一円、遠くは東京からも民宿のお客様も復旧作業を手伝いに来て下さった。涙が出る程,嬉しかった。何とか1月後、営業を再開し、災害当日、電話を下さったお客様もお迎えすることができた。

 その頃、電話、電線、道路、JR他の復旧作業が本格化し始めたが、営業再開できない宿も多く、復旧作業に来る作業員さんたちの宿舎が不足していた。民宿を宿舎として利用して下さっている企業からも、客室を増やして欲しい、と依頼を受けた。

 嫁ぎ先の土地は一切抵当には入れない、と決めていたので、てる子さんが代表になって会社組織にし、金融機関からの融資を取り付けることが出来た。ご主人はすでに増築用の木を山から切り出してくれていた。やがて、増築が完成し、復興関係のお客様で溢れた。3〜4畳の布団部屋で5〜6年暮らして返済に努め、2006年に完済することができた。

 ようやく、自宅の再建に取りかかることができると喜んでいたら、ご主人は山で木を切り始めていたそうだ。

  「1990年の災害時の辛く、苦しかったことが甦ってくるので、当時の写真やアルバムも押し入れの奥にしまい込んでいたのですが、昨年の東日本大震災を機に、宿泊されてたお客様にも阿蘇の復興の歴史を知ってもらおう、と決心してロビーに展示を始めました。すると、今年、また豪雨災害が阿蘇を襲い、叔母を失いました。私どもの宿は災害を免れましたが、災害の現場を見ると胸が痛くなります。前向きに力を合わせてがんばれば、今回も元通りに復興できると信じています。」

 実際に、災害現場を見に連れて行って下さった。最近の異常気象や至る所で崩落を起こす山々の現状を考えずにはいられなかった。てる子さんのアルバムの写真を拝見すると、今ある宿の姿と照らし合わせて、こちらも胸が熱くなった。

 「兄からは、あまり忙しくなると、楽しみが苦しみに変わるよ、とよく言われます。それはわかっているのですが、好きで始めた仕事ですし、私は頼まれたら断れない性格なので、それにお客様に喜んで頂けると、何もかも忘れてしまうぐらい嬉しくなってしまって・・・、ついつい、どんな仕事でも引き受けてしまいます。」



 「兄はいつも私たちを気遣ってくれて、事ある毎に国内外の旅行に連れ出してくれています。いつも仕事に追われているので、とても気分転換になって、感謝しています。最近、主人が手術をしたのですが、退院後すぐに、兄がオーストラリアに行こう、と言うんです。少し心配だったのですが、主人にも早く治そう、という気持ちが生まれたのか、旅行中はとても楽しそうで、元気になってくれたので、行ってよかったです。」

 「この宿を始めて、お客様を野の花でおもてなししてきたことが、私の一生の趣味になって、野の花の会の活動をしています。平成2年の災害から復興した時もそうでしたが、人が人として気持ち良く生かして頂けることに感謝して、ひとりひとりができることを考えて、やれることをやれば、今回の災害も、乗り越えられると思います。今後は、地域発展のためにできることも考えて、取り組んでいきたいです。」と、てる子女将。

コレゾ賞の趣旨をご説明し、受賞のお願いをしたところ、

 「それは有難うございます。兄や甥っ子と一緒に受賞できるのも嬉しいです。宜しくお願い致します。」と、ご承諾下さった。

 

 COREZO(コレゾ)「農家に嫁いで、お客様と交流したいと一念発起、豪雨災害も乗り越える野の花の宿の女将」だ。

 

梅木 てる子(うめき てるこ)さんに関するお問い合わせは、

メールで、info@corezo.org まで

※本サイトに掲載している以外の受賞者の連絡先、住所他、個人情報や個人的なお問い合わせには、返答致しません。 


COREZO(コレゾ)賞 事務局 (最終取材2012.09.編集更新2012.11.02.文責 平野龍平)
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