大平昌代さん

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COREZO(コレゾ)「小さな親切、大きなお世話で、四国のまんなかから笑顔の輪を拡げる、ええ夫婦 」賞

大平 克之(おおひら かつゆき)さん

徳島県三好市井川町出身、山城町在住

大歩危峡まんなか 代表取締役社長

http://www.mannaka.co.jp/

大歩危・祖谷いってみる会 副会長

http://oboke-iya.jp/whatsnew/2010/10/2010-1.html 




ジャンル

観光・地域振興

宿泊・観光施設経営

経歴・実績

一世を風靡したインベーダーゲームの電子基盤を製造していた大阪の企業に勤務後、

1979年 大歩危峡まんなか 入社

1981年 同社 常務取締役

1983年 同社 専務取締役

1987年 ホテルまんなか開業

2010年 同社 代表取締役社長

大平 昌代(おおひら まさよ)さん

山城町出身、在住

大歩危峡まんなか 取締役

http://www.mannaka.co.jp/ 


経歴・実績

東京の大学を卒業後、家業に就く

山城婦人会役員

三好市商工会女子部山城地区役員

池田法人会女性部山城地区役員


受賞者のご紹介

大平 克之(おおひら かつゆき)さんは、徳島県、大歩危峡の定番の観光スポットとなっている大歩危峡遊覧船を始め、レストラン、宿泊施設等を経営されている。紅葉時期等の行楽シーズンには駐車場から、バスや車が溢れ出る程の繁盛ぶりだ。また、「大歩危・祖谷いってみる会」の副会長でもある。

サラリーマン時代は、品質管理の仕事をしておられたので、お客様相手の仕事をしたことがなく、「大歩危峡まんなか」に入社された当時は、戸惑って、63kgだった体重が54kgにまで落ちたが、謝り慣れていたので、「すみません」が、「有難うございます」に代っただけということにすぐ気が付き、元の体重を通り越して、74kgに増量されたとか。

 大平家は元々、街道で行商人の食事処としてうどん屋を営んでおられたのが、宿場町の宿となった。明治24年に「大平旅館」となり、釣り船、遊覧船も始め、釣り人の釣って来た魚を料理して提供していたそうである。

 1972年に今の場所にドライブインを開業し、「大平旅館」は一旦、廃業されたが、大歩危には宿がなかったので、1988年の瀬戸大橋開通の前年に、「ホテルまんなか」を開業された。

 営業に行っても、当時はドライブインが大盛況で、そのイメージが強過ぎて、大歩危は通過点としてしか認識されず、ホテルは苦戦したが、代々、地元の人を大事にしてきたので、地元の冠婚葬祭の利用で何とか持ち堪えることができたという。

 そして転機になったのが、2000年に発足した「大歩危・祖谷いってみる会」で、個々のホテルではなく、地域で売るという発想で営業活動を始めたところ、旅行会社のパンフレットにも露出できるようになり、知名度が大幅にアップし、企画を立てて営業できるようになったそうだ。

地元の人口が減少するのに伴って、冠婚葬祭が減る中、宿泊数は増加していった。いってみる会の協力体制を更に強化して、地域を盛上げ、点と点をつないで線にしたものを次は面にして行きたい。それができるのは、最後は人だから、大歩危・祖谷の人をもっと売り出していきたいとおっしゃる。

 大平社長は、大歩危・祖谷両地域の人気者で、「大歩危・祖谷いってみる会」のムードメーカーであり、エンターテイナーでもある。自他ともに認めるかぶりモノマニアで、いつも率先して妖怪、「児啼爺(こなきじじい)」を始め、色々なモノをカブっておられる。

 2010年に「大歩危・祖谷いってみる会」発足10周年の記念事業として、観光フォーラムを開催されたが、式典の挨拶は、会長の植田佳宏さんを立てて、花を持たせるのだが、その後の懇親会では、「児啼爺」のかぶりモノをかぶって、司会進行に、アトラクションに大活躍で、きっちりとおいしいトコは全部持って行ってしまわれる。

 「大歩危・祖谷いってみる会」は、「地域新興のために」というかぶりモノができる大義名分を大平社長に与えてしまったと植田会長はおっしゃる。

 お客さんを和ませ、楽しませて、笑顔にする為にも、ご自身もいつもニコニコしておられる。もっともかぶりモノをかぶっていると表情は見えないが・・・。最近では、かぶりモノを取った後に、さらにウケを狙う技も習得された。 



その上、足摺岬との「海と山の秘境対決」という企画のイベントでは、ステージ上で、罰ゲームと称して、自ら頭を丸刈りにするという荒技にも出られた。ご子息は、「あそこまでして、ウケを狙う父を誇りに思います・・・。」と、若干引き気味であった。

 かぶりモノだけでなく、これまでの「大歩危・祖谷いってみる会」の観光フォーラムでは、地元代表のパネリストとして、何度も登場しておられる論客でもある。  

 また、行動も早い。いつぞやは、大歩危峡まんなかの駐車場に止めようとして、輪止めまで車をバックしたら、輪止めと後ろの壁の間隔が狭く、バンパーを少し擦ってしまった。きっと駐車場の設計が古く、昔の車のサイズに合わせて設置したのだろう。そのことを大平社長に話すと、平身低頭お詫び頂き、次に訪れた時には、輪止めの位置を前方に移動して、当たらないよう改善しておられた。

 「大歩危・祖谷いってみる会」の役員の皆さんはそれぞれの会社や組織のトップであるのに、「オレが」、「ワシが」の主導権争いや、「自分のところさえ良かったら」というような言動が一切見えてこない。それぞれの役割を自覚して、実行し、非常に上手く連携しておられる。

 ほら、そこのイザコザが絶えない、まとまらない観光地域の皆さん、「大歩危・祖谷いってみる会」の活動状況を一度、実際にご覧になられては如何だろう?



令夫人様の昌代(まさよ)さんは、毎朝、7時には厨房に入って、従業員の皆さんが出勤して来られるまで、9時開店の準備をしながら、お客様が来られたら対応しておられる。

 「電気代を考えたら、割に合わないかもしれませんが、お客様が開店前に来られて、閉まっていたら申し訳ないのと、少しでも売上が上がればと思って。昔はタイマーがなくて、毎朝、炊飯器のスイッチを入れるのが日課だったので、クセのようになっています。」と、昌代さん。

 従業員が出勤して来ると、一旦自宅に戻り、身支度を済ませて、売店に陣取り、ニラミを聞かせながら、バスが到着すると、「どうぞ、売店奥にお進み下さい。四国三郎、吉野川と遊覧船がご覧頂けます。」と、お客様を店内奥まで呼び込んでおられる。とにかくお店の中では一番声がデカイ。

 「この大歩危峡の遊覧船は祖父が始めたのですが、大平家は舟と一緒に生きていて、大水が出たとき等は、家族総出で、舟を守ってきました。もう生活の一部のような存在です。増水したりして、舟に乗りに来て頂いたお客様に、乗って頂けない時は、本当に申し訳なくて、涙が出る程です。」 

 「一人っ子で、親に逆らったことがないような従順な子供でした。物心がついた頃から、家業を継ぐのは当たり前だと思っていました。旅館もしていましたので、自宅で両親と一緒に食事が出来るのは台風の時ぐらいでしたが、父親は苦労人で、困っている人がいると放っておけない性格でしたから、ひっきりなしに父を慕って来る人がいて、いつも誰かと一緒に食事を食べていました。そんな父の背中を見て育ちました。」


 「高校生になると土日は手伝っていましたし、大学は東京に出してもらいましたが、学校の休みには必ず戻って手伝っていました。卒業してすぐに、家の仕事に就き、主人と結婚して家庭も持ちました。何故か、主人も困っている人がいたら放っておけない性格で、子供たちもその血を引いていて、娘の婿までもそうなんですよ。主人は、『小さな親切、大きなお世話』と言ってますが、『そこまでせんでも』とはどちらも言ったことがありません。」

 確かに、ご子息の修司さんは、大平家の「おぼっちゃま」らしく、気は優しく、行動力がある。取締役営業本部長として、「ホテルまんなか」を取り仕切っておられる。従業員の皆さんは、接客から清掃まで一人何役もこなされているが、チームワークがよく、いつも笑顔でキビキビとした対応は気持ちが良い。ホテルの運営だけでなく、地域活性化団体である「大歩危・祖谷いってみる会」の事務局次長や旅行会社関連団体、観光団体の青年部の役員も務め、日本全国を飛び回っておられて、結婚する暇もない?ぐらいお忙しいらしい。「大歩危・祖谷いってみる会」の植田会長からも、「とても素直で、行動が早い。」と、地域の次世代の担い手として期待されている。 

 また、娘婿の和田里 吉弘(わたりよしひろ)さんは、高校時代から「大歩危峡まんなか」でアルバイトを始め、卒業時に昌代さんから声をかけてもらい、入社した。若くして支配人の職に就任したが、車椅子のお客様には遊覧船まで付き添い、大雨でJRが運休、道路が通行止めになれば、足止めされたお客様を気遣い、早朝、深夜の送迎も厭わない。社長から大切なお客様の送迎を頼まれると、車内はチリ一つなく清掃し、どのようなご要望にも対応できるよう、冷・温おしぼり、飲料、観光パンフレット、膝掛け他を用意し、車内に自分が育てた生花まで飾る徹底振りだ。ご自身の母親世代のスタッフからも信望を集めているどこからどう見ても好青年だ。

大平社長は、いつもでも、どなたにでも気配りをされていて、人情味の厚いこの地域の中でも、別格である。昌代さんも地区の婦人会役員を務め、敬老会等のボランティア活動にも精を出しておられて、地元の人々からも、大平一族のええ話しか聞こえてこないのである。

 2011年9月、台風でJRが止まり、周囲の道路も通行止めになり、宿泊もキャンセルが相次ぎ、宿泊は筆者1人だけという夜があった。大平社長は、周囲の道路状況の確認に出掛けていて、ずぶ濡れで歩いていた若者2人を見かけ、ご自分の車に乗せ、連れて帰ってこられた。

 話を聞くと、その若者達は、大学の民俗学サークルで、この地域の妖怪伝説や風土調査のフィールドワークにやって来て、暴風雨の中、トボトボと大歩危駅へ歩いていく途中だったらしい。JRも止まっているからと、素泊まり料金で宿泊を提供し、食事の面倒まで見た上に、翌日は、妖怪と遊んだことがあるという地元で有名なお婆さんや妖怪村の皆さん、妖怪屋敷まで案内されていた。いやーっ、見ず知らずの若者達になかなかできることではない。

「ウチはここ大歩危や吉野川の自然をすこし使わせて頂いて、商売をさせてもらっています。台風も、大雨も、こんな日も甘んじて受け入れないといかんのです。他のお客さんもおられんし、こんな台風の夜にウチに泊まってもらったことはきっと忘れんきんな。」と、さらりとおっしゃる。ホスピタリティの塊のような方である。恐れ入ったというか、参りましたである。

 この若者達は、来年3回生になったら、民俗学サークルの仲間を連れて、大歩危・祖谷に戻って来るに違いないと思っていたら、後日談として、この若者の内のひとりのご両親が、ご子息が世話になったお礼にとお土産を持って訪ねて来られ、そして、台風の1年後には、その若者達が民俗学サークルの先輩を連れて宿泊に来たというのだ。

 「大平社長に宜しくお伝え下さい。」と伝えただけで、チェックアウトして行った若者を大平さんはJR大歩危駅まで追いかけて、昼食の弁当や飲みもの、ご両親への土産を持たせた。

 「忘れんと来てくれたきんが、嬉しいやないですか?観光も最後は人と人のつながり、お客様商売というのは目先の儲けやなく、こういう小さなことの積み重ねやきん。」と、大平さん。

 これこそが大平家先祖代々の奉仕の精神のDHADNA?)、大平イズムなのだ。

 ある調査事業で、大歩危・祖谷に長期滞在したのだが、その事業にも、ご家族、社員の皆さん総動員で、全面的な協力と支援をして下さり、地元のいろいろな方々をご紹介頂いたおかげで、業務がスムーズに進んだ上に、数々の貴重な経験をさせて頂いた。

「大歩危・祖谷のいいところは水と空気と人情だ。」と、皆さん口々におっしゃる。10年程前から、何度もこの地を訪れていたのに、一般の観光客の皆さんと何ら変わらない表面上のことしか見ていなかったことを改めて気付かせて頂き、この地の深い人情を学ばせて頂いた。

 東北大震災、福島原発事故発生直後から、募金活動や現地に入っての支援活動を始められた。自社で、東北の産品の販売も引き受けられ、「支援になるから、召し上がって下さい。」と、東北産の米やお酒を送って下さった。その志と行動力には敬服する。

 また、毎年、3月下旬から5月のこどもの日にかけて、「大歩危峡まんなか」と吉野川を挟んで、対岸の山壁にワイヤーを渡し、多くのの鯉のぼりを泳がせておられるのだが、ご子息を突然のご病気で亡くされたお母さまが、そのニュース報道をご覧になり、「遺品整理をしていたら、息子の誕生祝いに義母から貰った鯉のぼりが出て来た。もし可能であれば、一緒に泳がせてやって欲しい。」と、手紙と鯉のぼりが送られてきたそうだ。

 すぐに、その鯉のぼりを吉野川の川面の上にかけて、「息子さんの鯉のぼりは元気に泳いでいますよ。こちらに来られる機会があれば、是非、泳ぐ姿を見てあげて下さい。」と、写真を送られたそうだ。

 コレゾ賞の概要もまだ決まる前に、いの一番に、受賞のお願いをしたところ、コレゾ財団・賞の趣旨にご賛同頂き、第1回の表彰式、祝賀・懇親会の場所までご提供頂下さった。普段から「ええこと」をし続けている人は、凡人の想像等ははるかに超えてしまう。こちらの覚悟も決まり、身の引き締まる思いで取り組むことになった。ますます、大歩危の方向に足を向けて寝られなくなってしまった。

 COREZO(コレゾ)「小さな親切、大きなお世話で,四国のかんなかから笑顔の輪を拡げる、ええ夫婦 」である。 

大平 克之(おおひら かつゆき)さん、昌代(まさよ)さんに関するお問い合わせは
メールで、info@corezo.org まで
※本サイトに掲載している以外の受賞者の連絡先、住所他、個人情報や個人的なお問い合わせには、返答致しません。

COREZO(コレゾ)賞 事務局 (最終取材2012.09.編集更新2012.11.02.文責 平野龍平)
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